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後藤 拓朗[cure]展をみて考えた事①

大昔に書いたFBの記事をこちらに転送。
2013年に山形県白鷹町で開催された後藤さんの個展について、考えたこと。

※画像は後藤さんHPより(現在の作家HPはこちら
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後藤 拓朗[Cure]展 における、主題と構造について」

後藤氏の作品群は、複数のレベルでフラクタルかつ円環的な構造を形成しつつあるといえる。それが作品の強度を増す装置となり、鑑賞者は巻き込まれる様に会場と絵画内空間に漂いつづける。

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・入れ子構造としての絵画空間

ペインターである後藤氏の個展会場は、廃校を利用したアトリエで開催されている(なので今回は「オープンスタジオ」という名目となっている)。展示の仕方は通常の展示形式と違い、異常に高いところや低いとこに大小の絵画が設置され、場合によっては絵画自体が壁となっているものある。中には木枠から外されて、木の棒にただかぶせられている「絵画作品的なもの」すらある。
鑑賞者は、上下左右に身体を動かし、仰ぎ、覗き見る様に作品を見入る。入り口はあっても順序はなく(行き止まりすらある)、さまよう様に、発見する様に、同じ作品に再び出くわしながら鑑賞をし続ける。奇妙な展示形式ではあるが、これは、後藤氏の絵画と実は同じ構造をなしている。
後藤氏の主たる作風は、大小のモチーフが雑然と、しかし周到に配置され描かれている。視点誘導を巧みにコントロールしつつ、一定の世界観を築きながら、しかし主題の多様性は担保されている。これは、展示(マクロ)と作品(ミクロ)の構造とが同一である「フラクタル構造」をなしているといえる。

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・トリミング性

しかし、展示してある絵画は、他にもバストアップのポートレイトからオールオーヴァーな絵画形式、ドローイング、「絵画作品的なもの」まであり、一見すると関連のない作品群にも捉えられそうだが、しかしながら(ここにこそ)共通する構造を見いだせるのだ。

後藤氏の最新作はモノトーンのオールオーヴァーな絵画作品である。チューブの様な金属の様な内蔵の様な、得体の知れないグネグネしたものが画面いっぱいを覆っている。一見すると、抽象表現主義やミニマリズム、オートポイエーシスへの路線変更を感じさせるが、そこから絶妙に回避しているように思われる。なぜか。
それは、これらの作品が「トリミング性」つまり、”単体として自律しつつ、他の作品の一部となって”おり、それによってこの二つの要素が互いに強化されているからである。


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会場内の作品群を見回せば、オールオーヴァーな作品のモチーフが、じつは他の作品の中に紛れ込まれているのがわかる。みかたを変えれば、オールオーヴァー作品は、他の作品の一部分をトリミングしているともいえる。オールオーヴァーの「外側」があたかもあったかの様に(一番最近の作品は、実際に一度描かれたキャンバスをトリミングし貼りなおしたとのこと)。これは、ポートレイトの作品や「絵画作品的なもの」壁についた絵の具にも同等の事が言える。つまり、これらはすべては単体で自律しており、かつ他の作品の一部でもある。

・ミクロとマクロを行き来する装置として

この構造は、当然作品の主題に関しても同じである。作品の中には、竹島問題を主題にしたもの、巨大な男性器が描かれたものなどもある。いわゆる「読み解き系」の作風をなしているが、しかし、そこには絵画の諸問題、社会的な主題、実存・私性・身体性など、ミクロとマクロの視点が混在した絵画となっている。絵画でありつつ、絵画の外の世界をも同時に描かれているのだ。

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そしてそれは(展示空間と同じ様に)実世界の構造をもトレースしており、鑑賞者は、そこを俯瞰し(会場を歩き回る、社会的な問題を考える)、時にフォーカスする(箇々の自律した作品を見る、個人的な事を見つめる)。このミクロとマクロの往復運動が、結果的に双方の世界観の強度を高め続ける円環構造を形成する。(ゆえに”The Personal is Political”は、彼の絵画においても成立する)

・時間性を超えた円環をつくる

そう言った意味で、後藤氏がオールオーヴァー作品を描いたのは必然であり、結果的に彼の絵画は、より自由に、よりふくよかな奥行きを手に入れつつあると言える。今後、仮に写真や映像、立体作品を制作したとしても、絵画の強度を失う事はなく、むしろそれ故に強度を増す事になるだろう。(実際、後藤氏は今後、他メディアでの制作も考えているという。)
後藤氏の作品は直線的な進化では恐らくなく、過去の作品に常に変化をあたえ続ける非線形な深化を続けていくのではないか。それは制作された年代と関係なくフラットに羅列され、比べられ(リンクされ)る、グーグル時代にふさわしい制作(鑑賞)方法とも言える。

・白鷹の小さなアトリエで世界を捉えること

後藤氏は以前より、白鷹町の山奥のアトリエで絵を描き続けており、それもまた重要な意味を持つ。急激なグローバル化により、地域よる差が無くなっていくと同時に、過疎化、地域の画一化、富の集約化、争い(戦争)、災害、環境といった諸問題が、これもまたフラクタル構造を見いだせると言えるだろう(絵画形式=展示構成=白鷹町=山形市=東京=世界)。田舎の山奥で制作している彼の仕事と、世界的な問題とを(セカイ系とは別の)構造的な視点を持って繋げ、批評的に提示されているというのは、果たして言い過ぎだろうか。
もちろん、この円環構造は完全ではないが、確実に形成しつつあるのは確かな様に思う。このような営みが、白鷹の山奥でひっそりと続けられていることに、僕は感動するし大変勇気づけられた。





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