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ウポポイは30年後のイオマンテを夢みる

2年前の開館当時にいったきり、今回で2回目のウポポイへ訪れた。
あれからどうなったのか、気になっていた。

前回の訪問記事
自分たちで消化し、血肉にする時間を 白老町『ウポポイ』

ウポポイのメイン施設からみたポロト湖



オリンピック開幕に合わせ開館したものの、当のオリンピックは延期となり、感染症対策のため人数制限をし、人もまばらだった。外野からの(右も左も)批判にも晒されながら、しかし、そこに集った若いスタッフの姿が印象的だった。


2年も経った今は、それなりに人は訪れているようで、団体客や修学旅行生と思われる人たちの姿もある。外からの声もそう言えば聞こえて来ない。

このままある一定の役割を担いながら、淡々と運営されていくのかと、展示をみながら何となく考えていた。
けれど、彼らスタッフを再びみて、そんな事ないじゃないかと思った。

彼らが舞うリㇺセ(輪踊り)やタㇷ゚カㇻ(踏舞)、そしてウポポ(歌)は、素人の僕がみても明らかにレベルが上がっていて、自己紹介や語りも以前より落ち着いて堂々としていた。

チセの中でユカㇻ(叙事詩)を語るスタッフは、二風谷出身でアイヌアイデンティティを持つという。
屋外で弓矢と毒についてレクチャーするスタッフは「ここでずっと狩猟の道具や技術について調べている」と話す。
植生についてレクチャーするスタッフも開館からずっと同じ担当しているのだという。彼も自らをアイヌだと話す。

皆、とても若いのだ。僕と同い年もいるかもしれないけど大抵は歳下のようにみえた。
僕には、それがある種の希望のように映った。もちろん、様々な問題は今もあるのかもしれないけれど。

ユカㇻが紡がれるアペオイ(囲炉裏)。エカシから口伝で伝えられていく


そう思ったのも、ウポポイへ行く数日前に寄った「ピラサレ」で、白老アイヌ協会理事長の山丸さんとお話したためだ(ここのオハウを食べに言ったところ、偶然お会いできた)。

山丸さんは、日川善次郎エカシを中心として1989年、1990年、1994年に実施したイオマンテ(熊送り)にも参加した方だ。
当時のことを伺いながら、今のウポポイについてどう考えているのか聞いてみた。地元のアイヌの方々があの施設をどう捉えているのだろう。

イオマンテについて詳細に記載された書籍
ピラサレでいただいたオハウ。北海道の郷土料理・三平汁とよく似ている


「あそこは30年後、初めて大事な場所になる」と山丸さんは応えた。
あそことは、あの施設のことではなく、そこで働く彼らのことを指していた。

「彼らは今、殆ど失われてしまった私たちの文化や伝統を取り戻そうとしている。もしアイヌが復興するのであれば、それは彼らがあそこで学び続けた先にあると思っているよ」

もちろん、再帰的に習得した伝統が以前のそれと同じになるとはいえないのかもしれない。弓矢のレクチャーをしていた彼は「アイヌが使っていた毒についての技術はもう再現できないんです」と話していた。

一方で、ウポポはここ数十年で最も復興したと山丸さんは言う。「ウポポイの彼女たちもマレウレウもすごい。私たちの時代ではあそこまでできなかったよ」

ウポポイの公演パンフレットには、この公演の最終目標はイオマンテ(熊送り)を復活させることだという記載があった。見せるだけではない、自分たちに蓄積させていくものがある。

「イオマンテを今の時代に行うには様々な障害がある。でも私たちの一番大事なものがそこにあるから、やはりやらなければいけないよ。彼らもそれをわかっているはず」

ウポポイの本体は人だったのだ。国立の施設だとしても、失われた文化を紹介する展示があったとしても、ここには生きた若者たちがいる。

30年後のウポポイはどうなっているだろうかと想像しながら、彼の後ろ姿を眺めていた。
また来よう。

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