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ありふれた、でも途方もなく数奇で哀しく、豊かな人生 トム・ギル『毎日あほうだんす』

トム・ギル著『毎日あほうだんす』は、社会人類学者が、横浜のドヤ街に生きる日雇いの哲学者と出会う話だ。

フィールドワークで寿町に来たイギリス人留学生のトムさんは、労働センターで仕事を求めていたおじさんに英語で話しかけられた。
研究分野を聞かれ文化人類学だと答えると「マリノフスキー系の機能主義ですか?それとも、レヴィ=ストロースの構造主義派ですか?」とさらに尋ねられ、トムさんは答えに窮してしまう。

そのおじさんの名前は、西川紀光(きみつ)さん。熊本に生まれ、戦争により落ちぶれてしまった家庭に育ち、高校卒業後、自衛隊ほかいくつかの仕事を転々とし、ここ寿町で港の積荷の日雇いをしながら暮らすことにした。

酔った勢いで古書店で買ったコリン・ウィルソン『アウトサイダー』に夢中になり、お金がない時にたむろしてた図書館でエドワード・フォッファーの著作に出会い「同じ分子だな…、仲間。俺もお前が書くようなことができるぜぇぇ」と喜んだ。彼らは、紀光さんと同じ肉体労働者であり、同時に思想家だった。

紀光さんは、酒を飲みながら本を読み漁った。日雇いの仕事は3日に1回、だから時間はあった。港での肉体労働と、酒と、読書が彼の大きな心の拠り所になった。

刑務所に入れられたことを「面白いフィールドワークだったよ」と笑い、今の自分の暮らしをハイゼンベルグの数式を使って紹介し、中沢新一をグルと呼んだりする。一方で、お酒でなんども失敗したことや、姉との信頼関係、家に帰れない事情など、彼の素朴な実存も同じ言葉で語られる。時折挟まれる落書きも魅力的だ。


紀光さんは文章を書かない。読んで考える人だった。だから、トムさんは彼に定期的に会って話を聞いて、それを書き留めることにした。
それでてきたのがこの本だ。タイトルの『毎日あほうだんす』は、紀光さんが「アフォーダンス」と言うポストモダンの語彙を、トムさんが聞き間違えたことによるもの。


色んなことをぐるぐると考えた。
宮本常一の「土佐源氏」を思い出した。そこに描かれた馬喰の男。牛と唄と女性、ささやかで、なにも成し遂げなかった人の(ように社会では捉えられる)、しかし、途方もなく数奇で哀しく豊かな人生のあり方。
そんなことが他にどれほどあるのだろうか。たぶん数え切れないほどにあるのだろう。

また、自分もドヤ街で暮らすことになったらと考えた。どうしてか、昔からドヤに住んで日雇いの労働をしている自分をよく想像する。
ドヤ街にはなぜか親しみに似た感覚を持っていて、大阪に出張行ったときも、あいりん地区の三畳一間の宿によく泊まっていた。

その理由が何故なのかよくまだわかっていないのだけど、考えてみると、昔から新聞配達や引っ越しとか何かとバイトばかりしてたし、障害者トイレに1ヶ月弱泊まっていたり、自分の家がしばらくなかったりしたときもある。笑えるほど貧乏だったときもあったし、それこそ三畳一間のアパートに暮らしてたこともある。
でも、それとは違う理由がある気がしてるけど、やっぱりよくわからないな。


図書館でよくみかける、虫眼鏡でじーっと古文書や分厚い専門書を読んでるおじいちゃんたちを思い出す。彼らの、そのモチベーションはどこからくるのだろう。ひとの好奇心や探究心はいつまでつづくのかしら。


紀光さんにあったら聞いてみたくて、寿町まで足を運んでみる。あいりん地区にやはり似ていて、でも、随分新しい施設もある。ドヤ街から福祉の街に大きく変わっていってるようだった。紀光さんは、お酒で身体を壊してしまい、家には本がなくなってしまったと、この本のあとがきにはそう書かれていた。

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ああ、なんかまとまらない文章になってしまった。でも、まあいいか。


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