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支配と近代化の不可分な関係 シンガポールの場合

シンガポールはかつて、SYONAN-TOと呼ばれた時代があった。第二次世界大戦における日本による占領期のことだ。

シンガポールの歴史博物館にはかなりの面積を割いてこの昭南島時代の展示がある。日本が欧州による植民地支配からアジアを救い大東亜共栄圏を確立するという建前は一寸も描かれず、帝国主義的なアジア支配の恐怖と、それに苦しむ人々の姿を延々と紹介している。

シンガポールの博物館にあるSYONAN-TOコーナー
日本軍の実寸大戦車
日本軍によるシンガポール陥落を知らせる映像が


日本が敗戦し、イギリスが戻ってきた際には、シンガポールの人々は喝采を以て迎え入れたという展示がある。これは香港の博物館でも同様の展示があった。

イギリス軍の帰還を喜ぶシンガポールの子どもたち
日本による侵略の終焉、イギリスの帰還



シンガポールは、19世紀よりイギリスによる植民地支配を受けた。元の名はシンガプーラ(獅子のいる街)だったが、イギリスらしい名前にということでシンガポールとなる。当初はインド領による間接支配だったのが、地元商人の強い要望によりイギリス王室直轄植民地(crown colony)となった。
オランダによる貿易独占に対抗する為、西と東を繋ぐ要所としてシンガポールは貿易国として発展していった。

地元の商人たちの強い要望によりクラウンコロニーとなったという
貿易の要所としてシンガポールは栄える



ここでも香港同様、支配と近代化はセットとしてやってくる。自由と尊厳は奪われるが,経済や技術、教育は発展していき、他の地域との優位性も明らかになる。
展示の中でも、イギリスによる植民地支配を決定的に批判するようなものは少なく、むしろ植民地支配によって我々は発展したのだというメッセージが感じられる。それでも、欧州人とシンガポール人の間には埋められない差別と支配構造はあったのだが。

植民地じだいのイギリス人の立派な肖像画が飾られている
手前には使用人となったシンガポール人、奥にはイギリスによるコロニアル建築



そうした中で、日本による植民地開放という旗印は、シンガポール人にとってどう映ったのだろうか。展示には「イギリスの憂鬱」と題して、イギリス軍降伏の様子を紹介している。
日本軍は、この地に経済発展をもたらさなかったとある。香港同様、飢餓が蔓延し多くの死者と難民を出した。
イギリスの方がよっぽどマシだった、ということだろう。実際には、この地に日産の自動車工場などもつくり、産業発展を試みた形跡はあるのだが、歴史の解釈は一様ではない。

イギリスの憂鬱
日本映画社によるシンガポール陥落のポスター


第二次世界大戦後、植民地国による独立への機運は高まる。当時はシンガポールはマレーシアの一部として独立を果たす。さらにマレーシアから言わば追放というかたちでシンガポールは独立する。

独立の機運は、日本による一時的なイギリス植民地支配からの解放が契機となったとも展示には紹介されている。日本の行いを肯定する気は全くないが、結果的にアジア諸国の植民地支配解放に役立ったのだろうか(もちろんアジア諸国の近代化による主権意識の高まり、欧州諸国による国力減退や自己反省などの要因は大きい)。

現在のシンガポールの隆盛は、このような歴史の上に築き上げられている。この幾分入り組んだ歴史とその描かれ方はいったいどう捉えたらよいのか。韓国、香港、マカオ、シンガポール、バリとみてきたけれど、他のアジア諸国はどうなのかしら。

今も街中に植民地建築が残る
貿易だけではなく、金融センターとしても発展した

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