見出し画像

後藤 拓朗[Cure]展をみて考えた事②

昔に観た、後藤さんの展覧会を観てから考えていたことを、こちらにメモ。〈cure〉をめぐる問題と、忘れることについて。前回 ※画像は後藤さんHPより

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【〈cure〉についての一考察〜後藤拓朗「Cure」展の主題を手がかりに〜】

〈cure〉への欲望は、その目的ゆえに決して成就されることはなく、損傷と〈cure〉は半永久的に繰り返される。後藤氏の作品は、その”引き裂かれ”を引き受けながらも、「注意し(=向き合い)」続けることで止揚を試みる

・〈cure〉という欲望

今回の後藤氏の展覧会名は「Cure」である。
後藤氏の多様性を内包する世界観の中で、なぜこのタイトルが選ばれたのであろうか。深読みを承知しながらも、あえて作品の主題に素潜りを試みてみたい。

【Cure】展で出品されていた、俯瞰するタイプの作品群(竹島や山形、家の骨組みがモチーフとなっているもの)に、奇妙なチューブ上の固まりがそこかしこに描かれている。その周辺には、固まりから染み出しているであろう血の様なの液体が流れ出しており、ミクロ・マクロを攪拌させる様な配置がなされている(『新世紀エヴァゲリオン』のワンシーンであった、広大なランドスケープに巨人の内蔵がぶちまかされている様な。もしくは箱庭に牛の臓物がおかれた様な)。
オールオーヴァー作品にも同様なモチーフが描かれている(しかしがなら、血なまぐささは感じられず、表面はガラスの様な光沢感・透明感をたたえている)。それらが展覧会の会場に一定の温度と湿度を与えている。

スクリーンショット 2021-03-21 234740

スクリーンショット 2021-03-21 234829


展覧会名でもある「cure」とは「治癒・回復、救済」などといった意味合いを持つ。治癒とは、体に負った傷、あるいは病気などが治ることを指す。破損した身体(及びその機能)が正常に戻ること、また、外部からの関与によってそれが促進されること言う。
人にはいわゆる「自然治癒」と呼ばれている機能があり、身体及びその機能が破損した際に、傷口を治し病原菌を撃退したりするもので、それらは人の意識とは関係なくなされる反射行動である。(ヒポクラテスは、自然治癒こそが生きているものと生きていないものを区別するのだと述べている。)危機を感じ傷を受けたとき、生命を維持しようとする働きが生物にはアプリオリに備わっている。
〈cure〉の根源にあるもの、それは「”死”への接近と、そのとき発動する”生”への無言の欲望」なのである。


・〈cure〉の不可能性にぶつかるとき

しかし、〈cure〉の完了とは、いかなる状態のことを言うのであろうか。破損し機能が損ねられたものが「破損する前と同じ様になる」ことを言うのであれば、それは不可能と言わざるを得ない。

「治る」ということを「健康体に戻る(=非病気の状態になる)こと」と解釈した場合、「健康体=非病気」とは、はたしていかなる状態の事をいうのだろうか。病気は曖昧な概念であり、何を病気とし、何を病気にしないかについては、様々な見解があり、政治的・倫理的な問題も絡めた議論が存在している。
あるいは「元の状態に戻ること」のように解釈した場合、大きな怪我であれば傷痕が残るなどの後遺症があるため、たとえ治療が終了したとしても、それを治癒と呼べるかどうか微妙な問題をはらむ。また、「過去に傷を負った(病気を患った)」という記録は、身体に瘢痕として、さらに言えば細胞レベルで刻印(免疫、アレルギー)されており、それゆえ「完全に元に戻る」ということは原則的にはありえない。

破損が大きく、そして〈cure〉への欲望が強いほど、それらは「肥厚性瘢痕(ミミズバレ)※2」として、「ケロイド※3」として、「アレルギー※4」として過剰反応、過剰再生を続ける。※4

それは、(身体と繋がっている)精神においてこそ顕著である。精神の”破損”を〈cure〉する欲望は「元に戻る」ことをもって成就される。しかし、にもかかわらずその欲望が叶うことはない。元に戻るのではなく、常に「何か別のもの」になり続けるからだ。人は”元”という過去には戻れない。

*******
※1.肥厚性瘢痕とは、外傷後に、創面を修復しようと出来た線維組織が過剰に産生され、いわゆるミミズバレ状の傷跡(瘢痕)が、長期にわたり残存する状態をさす。
※2.ケロイドは元々の創部を越して形成されたより高度の瘢痕である。健常組織へ染み出すように広がる。
※3.アレルギーとは、免疫反応が、特定の抗原に対して過剰に起こることをいう。
※4.この問題は、先天性の体質なども考慮する必要がある。その場合”元”とは、「自分以外の誰か」というものになってしまう。
*******

・後藤作品にみる〈cure〉の”引き裂かれ”

そうした背景を整理した後に、再び後藤氏の作品群を見直してみる。
作品に描かれている、竹島や山形、男性器、家の骨組のモチーフみにまとわりつくケロイドの様な物体は、国や地域、そして性や住居における「死への接近」「〈cure〉への欲望とその不可能性」を、生理的なレベルをもって表出させていることがみえてくる。

描かれているモチーフ達は〈cure(=回復・治癒・救済〉を求め蠢いている。にもかかわらず、いつまでたっても望んだ「元の状態」に近づけず、むき出しの表皮は赤く晴れ上がり、血を流している。それらは、現代の社会や人間が抱えている問題のメタファーとなっている。

また、後藤氏の作品構造に従うならば、オールオーヴァー絵画に描かれているチューブは、無限に増殖する「死への接近と生への欲望」の純化構造と捉えることができる。暗がりに鈍い光を反射させるそのチューブ上の形態は、皮膚を浸食し過剰な再生を繰り返すケロイドの様でもあり、同時に無限に広がる宇宙空間の様にも感じさせる。

「あることを繰り返し行なっていくことで、予想しない結果(形状)を生む現象に関心がある」と後藤氏は言うように、彼のオールオーヴァー絵画の描画システムもまた、皮膚の過剰な再生プロセスよろしく「人の意識とは関係なく」描かれるために構築され、結果的に無限に増殖する印象を与える。

ここでいう「システム」とは、いわゆるオートポイエーシスやセルオートマトン的な観点からというよりも、「〈cure〉への欲望を無限に駆動させる、unlimitableな状態」を指していると見た方が自然である。プログラミングが完璧であっても、それを駆動させる”何か”がなければ決して描かれることはなく、始めから死んでいると変わらない。

ゆえに後藤氏の絵画は、絵画における〈cure(=回復、治癒、救済)〉を求める純粋無垢な願いと、結果的に意図しないものへと変化してしまう悲劇(もしくは希望)への”引き裂かれ”を始めから内包している(それは当然、現代の絵画における問題系のトレースでもある。絵画における”元”とは果たして何であろうか)。

・〈cure〉と〈忘却〉

言うまでもなく、後藤氏の作品は今日的な問題を捉えたものである。そのなかでも、あえて直接的には扱っていない、東日本大震災と原発事故(そして放射能)による”傷”と〈cure〉の問題を取り上げてみたい。なぜならば、この【Cure】展の主題こそが、上記の問題に対し、一つの回答(立ち位置)を示していると言えるからだ。

現在の日本は、あの大きな傷口を起点として、土地、社会、そして人の心も〈cure(=復興)〉を求めている。そして、それによる歪みもまた進行していおり、日を追うごとにその歪みは広がっている。同時に、〈忘却(=風化)〉もまた凄まじいスピードで進んでおり、そのスピードに誰もが戸惑っている(そのことすら気づかないこともひとによってはありうる)。

〈忘却〉は〈cure〉への欲望を消失させる手段の一つだ。「元に戻したい過去」を忘れることで〈cure〉の暴走を押さえる。しかし、同時に〈忘却〉は、過去の過ちや悲劇の繰り返しを許してしまうのもまた事実である。震災の記憶の風化は、未来への教訓をも手放してしまう。「死への接近」を忘れるゆえに、再び大きな傷を負ってしまうという、不可避のジレンマを生じさせる。(memento mori。「忘れる権利」と「震災遺構(=傷)の保存」の問題。)

・〈cure〉=”注意しつづける”手段としての〈芸術〉

わたしたちは〈cure〉と〈忘却〉のジレンマを止揚させることは、はたして可能なのだろうか。〈cure〉と〈忘却〉は、両者とも「傷をなかったことにしたい」という思いに引き寄せられている。その誘惑は強く、ゆえに逃れにくい。

ここまできて、僕は「傷と向き合う手段としての〈芸術〉」を、後藤氏の作品から感じていることに気づく。傷を治そう(=元に戻ろう)とするのではなく、忘れ去るのでもなく、”引き裂かれ”を受け止めそれと向き合う芸術。(これは、志賀理江子の「螺旋海岸」展示(写真集ではなく)にもまた同様のものを感じる)

「cure」の語源である「cūrāre 」は、ラテン語で「注意する」という意味である。〈cure〉は、何よりもまず”注意する(=向き合う)”ことから始まるのだ。それは終わりのない対話であり、痛みの先にある希望でもある。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?