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チェルフィッチュ「風景、世界、アクシデント、すべてこの部屋の外側の出来事」@札幌SCARTS を観て

チェルフィッチュ岡田さんは、最近「映像演劇」なるものに取り組んでいる。
以前、熊本現美でみた展覧会も映像演劇だった。半透明なカーテンに映されたほぼ等身大の演者。物質的な半透明さと、映像の明暗によって、身体性があるようでないような、幽霊みたいな存在を生み出していた。幽霊の彼らは、こちらに向かって話しかけてくる。"例の壁"から手招きをしてくる。

何故映像なのか、それは演劇なのか、映画やパフォーマンスと何が違うのか。今回は、その映像演劇の歩みをさらに進めた展覧会だという。

展覧会ダイジェスト映像: https://youtu.be/GXguuAMM05Q

展示は、一室のみの空間に4つの作品がある。しかし、どれも同じ2人の男女が出演している。

「穴」と書かれたテーブルにスポットライトが当てられている。近づくと、「君は」と上から男性の声が落ちてくる。穴にまつわる行動や感情について語られる。それに対して女性の声で「私は」と続き、穴にまつわる行動や感情の否定を語る。穴か。何かの隠喩かしら。

左に目を向けると、等身大に映された男が、壁にもたれかかりながら語りかけてくる。社会の真実を知っているとでも言いたそうなニヒリスティックな表情。でも、スーツの上から何故かボンテージを付けており、そのせいで話がうまく耳に入ってこない。
男の左隣の壁には、大きな隙間が開けられている。そこから奥でお茶をしてる人たちがみえる。演出ではなく、本物のカフェ空間なのだ。一気に現実に引き戻される。社会の真実を知るニヒリストは、その奥のカフェ空間を見ることはかなわない。男は、壁に寄りかかり、どんどんとずり下がっていく。

右手に目を向けると、カーテンが風で静かに揺れているのがみえる。そこには、熊本でも観た様な、幽霊の女が、団地で語りそうな独り言を呟いている。日常で精一杯の女。テレビの中のことと自分をうまくつなげることができないようだ。しかし、君は幽霊だ。カーテンの向こうにはおらず、音と光と影だけが存在している。もっというならば、存在感だけがある。

震災復旧ボランティアのとき、被災して人が住まなくなった家に、カーテンだけがたなびいてるのをみて息が止まりそうになったことがある。人の住まなくなった空間に、人の存在感だけを纏ったようなカーテン。
カーテンのうしろにはいつも幽霊がいる。

一番奥の大きなスクリーンには、男女が映し出されている。不思議な仕草をしながら、どうやら討論をしているみたいだ。革命についての討論。女は、革命を肯定する。社会変革のために、革命は今すぐにでも行うべきで、その遂行の為ならプロセスがどんなものであれ肯定される。多少の犠牲もやむを得ないのだ、という。
それに対し、男は、革命を否定する。社会変革はゆっくり為されるべきで、プロセスもリーガルであるべきだと語る。

どこかで聞いたことのある内容だけど、しかし、彼らは一度も互いの視線を合わせることはない。その視線はどこを向いているかというと、その2人を観ている僕に注がれている。映像のもつ特質上、どの場所にいても彼らと目が合うような仕様になっているのだ。

彼らは、僕の視線を介して討議を続ける。
まるで観客がいなければその議論は成り立たないかのように、真っ直ぐ僕をみながら交互に語り続けてくる。しかし、多少の揺らぎはあるものの、お互いの主張は変わらず平行線のままだ。

何か変だな。と思うようになる。
そのうち、男の姿が二重になる。別撮りしたものを合成し1つのスクリーンに投影しているのだ。とすると、この男女2人もまた、別撮りして後から合成しているのか。そうかもしれない。
最初からお互い見えていないどころか同じ空間にすらいない。のだとしたら、僕は何を観ているのだろう。討議は、僕の視野の中にしかない。聴覚の時間的連なりにしかない。

急に気持ちが悪くなり、入り口付近のソファに逃げ込むことにした。この感覚はいったい何なのだろう。

遠くのスクリーンをぼんやり見つめる。相変わらず、あの男女は討論を続けている。ここからは僕とは視線が重なることはない。滑稽な仕草をしながら、互いに声を出しているだけだ。

何となく、この気持ちの悪さの理由が分かってきたような気がしてきた。そもそも、自分はあの討論に参加などしていないし、その内容について考える義務もない。にも関わらず、まるで自分ごとの様な心持ちになり、彼らの主張が自分の考えにだらだらと侵入してくる。

そう、彼らによって僕の視線は奪われたのだ。にもかかわらず、驚くべきことに、彼らは僕のことを観てなぞいない。この視線の略奪と非対称性によって、僕は扇動され、攻撃的な感情すら植え付けられようとしていた。

この感覚には、覚えがある。
現実社会の中で、その視線の略奪と非対称性は繰り返されている。僕は無意識にそれに引き寄せられ、曝されている。それは暴力であり目に見えない権力だ。

これは演劇なのだろうか、映像作品なのだろうか。
フィクションなのか、現実なのか。現実の肉体を持った人間が演技をすることの当然さと不可思議さが演劇なのだと、僕は思っている。その現実とフィクションは観客との共犯関係によって成立している。

実態のない存在であっても、観客がその存在感を感じた時点で、その共犯関係は成立する。それが、幽霊であっても、SNSのタイムラインであっても。
いや、それは共犯関係とはもはや言えず、身に覚えのない罪を負わせられているに過ぎない。

僕は、それから逃れなければならないけれど、容易ではないだろう。彼らは一見して歓待の顔をして微笑みかけてくる。あなたを肯定します、と。しかし、彼ら(人ですらない場合がある)僕の目などは見てなどいないのだ。
だとしたら、そこから逃げるのが良いのだろうか。それだけでは足らないだろう。逃げる場所はもう多くはないし、逃げたところで状況は変わることはない。

奪われた視線を再び取り戻すことが必要だ。そのために、現実とフィクションを繋ぐ術を、つまりは演劇をもう少し深くみていく必要があるように思った。

これまでにも、岡田さんの演劇や本にぶっ飛ばされた経験があるから(『私たちに許された特別な時間の終わり』はトラウマ級に揺さぶられたし、『フリータイム』は繰り返し見過ぎている)、今回の試みもとても関心があるし、もう少し考えていきたいと思ってる。


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