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反復される開拓と郊外の歴史 『三富新田』

埼玉県三芳にある『三富新田』。ここは江戸時代に開拓された計画農地だ。

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太古からこの土地は照葉樹林が広がっていたが、焼畑が繰り返されることで、ススキや茅の生い茂る原野が広がっていた。川が近くないため人は住むことがなく(縄文時代の遺跡もない)、もっぱら入会地(近隣集落で共有していた茅などの草刈り場)としての役割を担っていた。
万葉集で歌われていた武蔵野の風景は、こうした原野のことだった。

変化が訪れたのは江戸時代。都市化し人口が膨れ上がる江戸への食糧供給が郊外に求められた。川越藩のお殿様は、この土地を農地にしようと計画。地割し、ここで農業しませんかと呼びかけた。

当時の農民にとっては自分の土地を保有するまたとないチャンス。なので、川越・名栗・膝折・高麗・箱根ヶ崎・入間川などからやって来たほか、群馬・山梨などの遠方地域からも入殖してきたという。

しかし、関東ローム層の赤土は栄養もなく水も蓄えられない、その上、この地特有のからっ風が土も種も吹き飛ばしてしまう。

それを解決するために採用されたのが、この地に落葉樹や竹を植えることだった。コナラやクヌギは、秋になると葉を落とし、それをかき集め腐らせると、やがて豊かな土になる。また雑木林は、建材にも燃料にも、家や土を風から守る壁の役目にもなった。竹は百姓道具を編むのにもつかえる。茶畑も貴重な収入源となった

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好んでつくられたのは、痩せた土地に強く、そそして商品作物(売れる野菜)の代表格であるサツマイモ。
しかし、サツマイモは南国の野菜なので、温度が高くなければ発芽しない。そこで彼らは、落ち葉を集め踏み固め発酵させることで熱を生む『踏み込み温床』で発芽させた。そのサツマイモは美味いと江戸でも評判になり、農家のよい現金収入となった。

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この地区を上空からみると、短冊状の畑に分けられて、屋敷の周りには屋敷林、その反対に雑木林(ヤマ)が広がっている。ひと区画は73×682m。驚くほど縦長で、ほぼ当時の地割されたカタチのままで残されている。

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こうして、国木田独歩が愛した雑木林の風景はつくられていった。

そこから時代は流れ、昭和40年代高度成長期。メガロポリス化する東京の更なるニーズを受け、住宅群や工場、廃棄物処理場が増加してくる。農家以外の人々がこの地にやってくるようになり、雑木林や畑は次第に減っていった。
反復される開拓と郊外の歴史。

三富新田を自転車で走る。
送電鉄塔とニュータウンと工場の合間に、雑木林と畑がみえる。コロナ騒乱を他所に車は行き交い、電車は走り、農家さんは土を掘り起こしていた。
ここからは、色んな風景がみえてくる。

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