2回だけ泣いた
私の父である秋野泣虫が亡くなったのは2007年2月。2006年5月頃にステージ4の胃ガンが発見されてから9か月の命だった。私、秋野朱裕は当時高校3年生の受験生だった。家族は父、母、私の3人。母さんからは父さんがガンだったということは聞いたが、ガンに対する知識が無かったのかからなのか、現実的な感じがしなかったのか、動揺することはほぼなかったと記憶している。むしろ「だから早く病院に行きなって言ったじゃん」と言った記憶はある。それは父はよく寝る前に柔らかい野球ボールで胃を押し付けていたからだ。明らかにおかしなルーティンだった。また自営業だったので健康診断はなく、病院嫌いでもあった為、全く病院に行くことはなかった。母さんは悔やんでいたのかもしれない。もっと早くに無理やりにでも病院に連れて行けばよかったと。
ガンが見つかってから9か月の間、入退院を繰り返していた父さんに対して全く何の感情もなかった。母さんも父さんも受験生である私に気を使っていたのか、詳しいことは言わなかった。私も聞かなかった。お見舞いに行くこともなかった。私の生活は何も変わらず、悩むこともなく、友達に言うこともなかった。
父さんが亡くなる1週間前に母さんから病院に行こうと言われて、母さんから、もってあと1週間だと。病院の待合室にはおばあちゃん(父さんの母)もいた。母さんと一緒に父さんに会いに行った。そこには変わり果てた姿の父さんがいた。そういえば2か月くらい会っていなかった。ガンは痩せるとは聞いていたが、痩せているだけでなく、抗がん剤で髪もなかったので高校生だった私には衝撃的なショックを受けた。そして父さんはその時はもう意識が朦朧としていて母さんも私も認識できていなかったと思う。それでも母さんは「父さん、父さん」と必死に声をかけていた。私はあまりのショックで声をかけることもできなかった。待合室に戻ったらおばあちゃんがいた。私は父さんが死ぬということを初めて現実として受け入れた悲しみで大泣きした。これが1回目の号泣だった。
父さんの死の宣告から1週間。もうなるようにしかならないと現実を受け止め、普段と変わらない生活をした。私の高校の卒業式まで1週間ちょっと。せめてここまでは生きてほしいと家族は願った。すると卒業式の3日前。大学受験中だった私に、母さんから「今夜がヤマだ」と。受験が終わってそのまま病院へ直行した。父さんの意識は全くなく、苦しそうに息をしているだけ。医者からはだんだん息が弱くなり、いずれ止まると。親戚も集まり、父さんの最期をみんなで見届けた。みんな泣きながら見届けた。私以外。この時、私は悲しみよりも怒りの感情の方が大きかった。まだ私が高校生なのに死ぬのかよと。また、私は小さい頃から一人っ子というコンプレックスを持っており、この悲しみを同じ立場で共有できる人がいないことが辛かった。
父が亡くなったのは深夜。私と叔母は家で布団を準備をする為に先に車で帰った。その車の中で、父さんを失ったことを実感して、悲しさのあまり声を出して泣いた。そこから朝まで寝ている父さんの前で冷たくなった顔の温度を感じながら泣いた。泣いたのはそれが最後。家に町内会の方々が一目見ようと家にきてくれた時も、お通夜、お葬式と私は涙を見せることはしなった。
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