20歳のサヴィニー「カントになりたい」

Ⅰ 20歳のサヴィニー

 19世紀のドイツを代表する法律家サヴィニーは,若い頃友人に宛てた書簡で「カントになりたい」と述べた。

 サヴィニーは,フランクフルト・アム・マインで1779年に生まれた法律家で,数多くの著名な芸術家や学者を生んだ19世紀のドイツを代表する人物の1人である。1810年に新設されたベルリン大学の教授となり,その2年後にはわずか33歳で総長に就任している。当時のドイツは多数の領邦に分裂していたが,中でも最も強力だったのがプロイセンで,ベルリン大学はそこにあった。晩年,サヴィニーはそのプロイセンの枢密顧問や大臣を歴任し,実質上のプロイセンの宰相として政治の世界でも活躍した。

 そんなサヴィニーが「カントになりたい」と友人への手紙に書いたのは1799年で,彼が20歳の頃のことだった。当時カントはまだ存命中で,生涯のほとんどを過ごした東プロイセンのケーニヒスベルクに住んでいたが,すでに75歳を迎えており,「批判哲学」を確立した『純粋理性批判』,『実践理性批判』,『判断力批判』の三部作はもちろん,法律学に影響を与えた『永久平和のために』や『人倫の形而上学』(この書物のタイトルはMetaphysik der Sittenである。このSitteという言葉はヘーゲルとのつながりで「人倫」と訳されるのが一般であるが,カント自身がそれをMoralと言い換えていることから,同書は『道徳形而上学』と訳されることもある。)もすでに発表済みだった。とはいえ,カントは70歳を過ぎても衰えることなく精力的に哲学を深めており,『永久平和のために』は71歳,『人倫の形而上学』は73歳の時に執筆している。

Ⅱ カントとルソー,そのコペルニクス的転換

 カントといえば定言命令を導いた批判哲学で有名だが,『人倫の形而上学』では「法」を論じている。当時の法律学は,啓蒙思想の影響で自然状態における法を想定し,そこから人々の「義務と他律」の体系を導いていた。カントは,啓蒙思想家の代表格であるルソーの信奉者だった。ルソーの『エミール』を読んで熱中したために,規則正しい日課としていた散歩を数日間とりやめたというエピソードや,簡素な書斎の唯一の飾りがルソーの肖像画だったというエピソードは有名である。そのため,カントも当初は,ルソーと同じく法を「義務と他律」の体系と捉える考え方に立っていた。ところが,カントは,一連の批判哲学に基づく観念的な思弁の結果,法を人々の「権利と自律」の体系へとコペルニクス的に転換させた。「カントになりたい」と述べたサヴィニーの真意は分からないが,その言葉の中にあえて法学的意味を見出すとすれば,カントが導き出した「権利と自律」の体系への共感を読み解くことができるだろう。

Ⅲ カントとの方法論的決別

 しかし,学問とは皮肉なものである。ある時点からサヴィニーは,方法論的にカントと相容れなくなる。観念的な思弁ではなく,歴史的経験にこそ法の源があると考えるようになったからだ。

 1789年,サヴィニーが10歳の時にフランス革命が起こった。プロイセンは他の国々とともにフランス革命に干渉したが,フランス軍が戦局を有利に展開するのを見て,1795年にフランスとの間で講和条約を結び,ライン川の左岸の占有をフランスに認めることになった。その後,1806年には西南ドイツの諸連邦がナポレオンの保護下に入ったため,形骸化しながらも10世紀から続いてきた神聖ローマ帝国は崩壊した。同じ年,プロイセンはフランスと開戦したものの,ナポレオン軍に敗れ領土のほぼ半分を失った。こうしてフランスに併合された地域では,ナポレオン法典が適用されることになった。しかし,ナポレオンの支配は長くは続かず,ドイツ国内でも徐々に反対勢力が結集するようになり,ついには,ナポレオンがロシアに遠征したのをきっかけに,ロシア・プロイセン・オーストリアなどが一丸となってフランス軍を破り,ナポレオンを退位に追い込んだ。

 1814年,ドイツが対ナポレオン戦争に勝利すると,その2ヵ月後にハノーファーの宮廷顧問官であった政論家のA・W・レーベルクは「ナポレオン法典とそのドイツへの導入について(Über den Code Napoléon und dessen Einführung in Deutschland)」と題する一文を発表し,ドイツの一部に適用されていたナポレオン法典を排撃した。これを受けて,ハイデルベルク大学のA・F・J・ティボーは,一方でナポレオン法典に一定の評価を与えつつ,ドイツ統一民法典の編纂を提唱したのに対し,サヴィニーは,法は歴史の中から経験的に形成されるものと主張して,拙速な法典編纂に反対した。世に言う「法典編纂争」である。

 この論争は,ドイツ統一民法典の編纂が実現しなかったという点でサヴィニーに軍配が上がった。かくしてサヴィニーが確立した歴史法学という方法論は,カント流の観念論とは180度異なるものとなっていった。

Ⅳ 学派の形成とヘーゲルとの確執

 後年,サヴィニー自身は控えめに「(サヴィニーの)反対が無ければ,おそらく一般法典が成立していただろうなどと真面目に主張する者はいない」と述懐している。その意味では,時の政治情勢からして統一法典を作る機が熟していなかっただけと見ることもできる。むしろ,この論争の成果は,サヴィニーを始祖とする歴史法学派が形成された点にあったのかも知れない。

 この学派の綱領は,1815年にサヴィニーが創刊した『歴史法学雑誌(Zeitschrift für die geschichtlichte Rechtswissenschaft)』に創刊の辞として掲載された「この雑誌の使命について」に端的に示されている。サヴィニーは,自らの後継者であるG・F・プフタをはじめ歴史法学派に同調する多数の教授をベルリン大学法学部に集めた。また,歴史法学派のもう一人の代表格であったアイヒホルンが本拠地としたゲッチンゲン大学には,サヴィニーの弟子でグリム童話で有名なヤーコプ・グリムなどが集まった。

 こうした歴史法学派に真っ向から対立したのが,当時サヴィニーと同じベルリン大学に奉職し哲学部を牛耳っていたヘーゲルだった。ヘーゲルは1818年にベルリン大学に赴任する前はハイデルベルク大学に在籍しており,そこでティボーと親しくしていたこともあり,サヴィニーの歴史学派に対してはことさらに敵対心を抱いていた。

 サヴィニーとヘーゲルとの対立は,ベルリン大学法学部の人事をきっかけに深刻化し,サヴィニーはヘーゲルひいてはカントへの批判を強めていく。実はヘーゲルはカントと面識はなかったのであるが,言うまでもなくヘーゲルはカントの流れを汲むドイツ観念論哲学の第一人者と目されていたからである。

Ⅴ やはりカントになった

 では,こうした一連の動きによって,サヴィニーはカント流の「権利と自律」の体系を捨てたのだろうか。答えは否である。確かに,方法論的にはカント批判の急先鋒に転じたものの,サヴィニーの確立した民法学は,やはり「権利と自律」の体系だった。そのことは,ドイツ民法の強い影響を受けた日本の民法典からも容易に知ることができる。

 法律学は一見すると,要件・効果の並んだ無味乾燥な技術に見えることもあるが,その背景には,哲学的な洞察が潜んでいる。サヴィニーの法律学は,20歳の頃に出会ったカントの哲学と,切っても切れない関係を持っていたと評することができるだろう。カントが示したコペルニクス的転換に魅了され,「カントになりたい」と友人に漏らした青年は,やがて大きな社会的使命を遂げる中で,立派なカントの後継者になったわけだ。

 20歳前後に影響を受けた哲学は,その後の人生の荒波の中でいかに姿を変えようとも,その人の物の考え方に根深い影響を残すものだと、サヴィニーの人生を垣間見る度につくづく思う。

         (2016年1月22日脱稿。野村ゼミナール論文集巻頭言) 


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