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バイアスへの対応が最も必要なリーダーへの提言書『リーダーのための【最新】認知バイアスの科学 その意思決定、本当に大丈夫ですか?』より 第3回

バイアス研究の第一人者である著者が、ビジネスパーソン向けに神戸製鋼所や旧ジャニーズ事務所など30の事例から組織が陥りがちな「意思決定の罠」とその処方箋を解説したバイアス対策マニュアル『リーダーのための【最新】認知バイアスの科学 その意思決定、本当に大丈夫ですか?』から書籍内容を抜粋してご紹介。第3回は「身近なバイアスに誰もが振り回されている」です。


身近なバイアスに誰もが振り回されている

「うちはこうやってきたから」を考え直す

 よくある誤りとして挙げられるのが、自然主義的誤ご 謬びゅうというものです。
 簡単にいうと「うちはこうやってきたから、今後もこの方法で行くべきだ」といったふうに事実と規範を混同する誤りで、よく言われる例ですと、前例主義や慣例主義的な「べき論」です。これは組織においても見られることがあるでしょう。
 前半の「うちはこうやってきた」は事実を言っただけですが、そのまま後半の「今後もこの方法で行くべきだ」と結論するのは論理の飛躍です。
「うちの会社にもある」と思われた方もおられるでしょう。これは会社に限らず、いろいろな場面で見られます。
 慣例と言いましたが、そういったものは多くの場合、理不尽に作られたわけではなく、その慣例ができたときは何かしらの意味があったと思われます。しかし、その慣例ができた場面を考えずに常に適用していると、おかしなことも生じます。
 たとえば、次のような例を考えてみましょう。

 A大学では、ある研究費として、予算1500万円が確保されています。
 そこでA大学は、大学内で研究をやる人を募集し、希望者にはいくら使うかを書いた申請書を出してもらい、審査に合格した人に分配するという手続を取ったとします。評価の結果、合格点を上回った人の希望額が、1500万円という予算を超えてしまったらどうしたらよいでしょうか?
 もっと基準を上げて合格者を減らし、1500万円に収めるというのも一つの方法でしょう。しかし、研究というのは何が当たるかわかりません。そのため、なるべく多様なタネを育てるのが得策です。
 そこで合格者のうち、申請書の評点が下位50%くらいの合格者の希望額の3割をカットしたところ、予算に収まりました。そのようなことが何年か続いていたので「下位者の配分額は希望額の3割カット」ということが慣習化しました。
 しかしある年、合格者の配分希望額を全部合計しても予算金額の1500万円を下回りました。このとき、どうするでしょうか?

 素直に考えると「そのようなときは全員に満額分配すればいい」となるでしょう。
 しかし、慣例主義に縛られると、このようなときも「下位者の配分額は希望額の3割カット」をするという意見にもなり得るのです。
 そのような考えに対しては、もちろん理由が問われるわけですが、慣例主義に縛られた答えは「これまで配分するときには下位者は3割カットしてきたから」というものになるでしょう。
 ここでは、それぞれの申請希望額は個別に審査されて「研究に必要だ」と、個別の審査では認められた金額です。それが全体の会議で、予算があるのにカットされるということは、研究費を受ける研究者に対して説明ができないでしょう。
 また、本来必要な金額をカットすれば、できる研究もできなくなります。しかし、それでも「悪しき慣例主義」があれば、頑なに「これまで3割カットしてきたから」と(その年においては最適な)判断を押し切ってしまうのです。

 これまでは、審査に合格した人をすべて採用すると、予算金額がはみ出る状況があったのでしょう。そこで合格者をさらに減らすことはせず「合否がボーダー上の人まですべて採用し、3割カットで予算に収めよう」ということだったのでしょう。その状況では適切な判断と言えます。
 しかし、その状況前提が違っているときでさえ、そうしなければならないというふうに判断されるのは、まさに自然主義的誤謬です。

書籍の印税が10%という具体的な根拠とは?

 この例のように、いわゆる「悪しき慣例主義」には、自然主義的誤謬の結果、そのような意思決定をしているということもあるのではないでしょうか。
「〇〇主義」という考え方の問題ではなく、バイアスの問題かもしれないのです。
 たとえば、出版社の印税は広く知られているように10%が多いです。
 最近は出版不況もありますし、カラーの本などは印税が下がることもありますが、10%が一つの目安になっています。

 でも、この10%という数字は、出版社が「通常、こうなっているので」で提案されて、著者側もそれを了承するという感じになっているのが実情です。
 私も、そのようにして出版業界が維持されていくのであれば、それでいいのではないかと考えていたのですが、ある仲のいい編集者さんと話していたときに、もっと別の分け方もあり得るのではないかと気づきました。自分でも、アンカリング効果(後述)に囚われていたのです。

 もちろん、著者と出版社が毎回丁々発止、交渉しなければならなくなれば交渉のコストが発生するので、社会全体としてみたらコスト高になってしまうかもしれません。
 そして出版社も、売上の100%を受け取るわけではありません。出版社は、本を印刷して、全国の書店に配送し、逆に返品も受けて、編集者や営業マンの人件費も払わなくてはなりません。かなりお金が掛かるということです。
 とすると、こういったコストが削減できる電子書籍であれば、印税率はもう少し上がってもいいのかもしれません。
 たとえば、アマゾンの「アマゾンダイレクトパブリッシング」は、アマゾンが提案する価格設定を受け入れると著者が売上の75%をもらえるそうです。
 編集・校正・印刷・製本・配本・営業などのコストがまったく掛からなければ、この支払いスキームは合理的かもしれません。また、出版社であっても、紙の本の印税率と、電子書籍の印税率が違っていて、電子書籍のほうが高いこともよくあります。
 いずれにしろ、自然主義的誤謬を説明する上で「書籍の印税10%」という例は、出版に関わったことのある方ですと、非常にわかりやすいエピソードと言えるでしょう。

「それでうまくいっていた」という過去がある

 A大学の例にしろ、印税の例にしろ「今まで、それでうまくやってきた」という背景がありました。
 前者の例は、予算に対して「申請額を削らないと、合格者を大幅に減らさなければならない」ということのほうが圧倒的に多い、という状況が続いてきたのだと思います。
 なるべく多くの研究のタネを育てるという観点からは、合格者を減らすより1件当たりの配分額を減らすほうがよいことになります。
 一度やってうまく進み、その後、同じ状況が繰り返されても、同じようにやってうまく進めてきたという事実が踏とう襲しゅうされてきたので、今回も「審査に合格した人でも予算を削る」と判断された……。
 いつのまにか「べき」に変わっていれば自然主義的誤謬と言えます。

 印税についても「ずっと10%だったのだから今後も10%であるべき」であれば、自然主義的誤謬と言えます。しかも「10%」という数字は、非常にキリがよくわかりやすいものです。これが9%だったら、また違った状況になっていたかもしれません。
 のちほど、第3章で「アンカリング効果」の項で詳しくお話ししますが、こういった数字は「0」や「5」など、キリがいい数字ほどインパクトが大きくなります。
 自然主義的誤謬は私たちが気づかずに陥っていますし、当たり前になっていることも多いかもしれません。
 もし、ご自分の会社で昔から続く慣例で「もう不要なのではないか」「むしろ廃止したほうがいいのでは」というものがあったら、まったくゼロから考えて、今からそのやり方を採用するかを考えてみるのもいいかもしれません。

書籍目次

第1章 なぜリーダーにバイアス対策が必要なのか?
第2章 実例から押さえておきたい重大(十大)バイアス
第3章 身近に潜む組織に悪影響な20のバイアス
第4章 意思決定を妨げる錯誤に要注意
第5章 バイアスや錯誤を把握して、ベターな問題解決を

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