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井戸、そして7月の庭



 「昼に浮かぶ月と夜の月が同じものだとは私思えないの」と彼女は言った。
 「前者は舐めたらざらざらしてはっかの飴みたいな味がするって思うし、後者は舐めたらばちが当たりそうだもの」
 「昼の月は遠くて、夜の月は近い」と僕は言った。







 お隣さんはりんごを投げてよこしてきて、柵をまたぎ花のアーチの下をくぐって僕の隣に座った。

 「あそこに井戸が見えるでしょう」

 青い斑点のついたワンピースから白い足をぶらぶらさせながら彼女は言った。

 庭の奥には錆びたグリーンの手押しポンプ式井戸がかしこまっていた。よく見ると台座につけられたボルトはねじが数本外れていたし、ハンドルは誰からも握られることがないまま本来の動きを忘れてしまったかのように長いこと同じポーズだった。僕は自分の家の庭に井戸があることなどほとんど忘れてしまっていた。

 「いつも窓から眺めてるのよ、あれ。私の部屋からだとちょうどよく見えるから」

 「どうして君は井戸なんか眺めてるんだろう?」

 と僕は言った。一体何が楽しくて使えなくなった手押しの井戸なんか眺めるというのだ。天気のいい土曜の午後に14の女の子がすべきことなんていくらでもある。映画や水泳、テニスを除いたとしてもだ。

 「ここ最近は何をしても楽しくないの。ねえそういうことってある? もちろん友達と買い物に出かけたり、映画を見たりするのは楽しいのよ。でもそれは、賞味期限付きの水物の刺激なの。華やかでいい香りがするの。でもそれは私が求めてる楽しさとは別の種類の楽しさなの。同じホテルの同じ階、だけど壁を隔てた隣の部屋なのよ。私の部屋からもう1つ隣の部屋へはどう頑張ったって入ることができないの。私は鍵を1つしか持っていないし、新しい鍵を手に入れるには今ある鍵を捨てなきゃならないの。だから私こうして家にいるわ。窓から井戸が見えるもの。ねえ、あなたにもそういうことってある?」

 「わからない」と僕は言った。

 「楽しさに種類があることや今が楽しいかどうかを確認するタイミングを設けたことがなかったんだ。井戸だって君に言われるまであそこにあることを忘れていたんだ。僕は今のところ、見えているものの中でそれが必要か不必要かを選んできたような気がする。だから君の言っていることがうまく飲み込めないんだと思う。君は僕の見えないものを見ることができるし、それを必要としているみたいだから」

 7月の太陽が雲に隠されて、庭全体がすっぽりと冷たい藍色に覆われた。それはとても短く心地よい時間だった。彼女はしばらく黙って考えているようだった。再び僕たちの周りにくっきりとした濃い影が落ちるようになると

 「実はあの井戸まだ水が出るのよ。ほんのちょびっとね」と彼女は言った。


詩集『南緯三十四度二十一分』収録作

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