見出し画像

きんからきん日記 8/9から8/16


8/10

2023年に撮りためていた28枚のフィルムを、思い立って近所のカメラ屋へ持っていった。これは、およそ一年前に撮影されたKodak社のフィルムだ。そこに記録された写真のなかには、何となく出来事や場所、人物や音や匂いと共に思い出せるものも含まれているが、大半がもはや記憶に残されていない、一つの前の夏の瞬間たちである。そして自分は恥ずかしながら、フィルムをちゃんと現像に出したことがない。それ以前に、フィルムカメラを使って写真を撮ったことがほとんどない。だからつまり、この日が初めての現像だったのだが、そんな期待はものの見事に打ち砕かれることとなった。「お兄さんこれね、全部黒くなっちゃってるから」写真屋の初老の店主は、白髪混じりの頭をかきながら、そう申し訳なさそうに告げるのだ。フィルムというのは繊細らしく、日差しや高温にさらされる環境には弱いらしい。「これじゃあ、プリントできないのよ──」フィルムが傷んだ決定的な要因は、外出時には高温になる日当たりの良い真鶴の自室に、それを長いこと置きっぱなしにしていたせいなのだろう。結局、写真屋には現像代の650円を支払ったのだが、手元には焼け焦げた何の写真も映らない使用済みフィルムと、それを包んであったよれた封筒だけが残った。あの夏に撮った写真はついに消えてしまった。今年の夏のどこを探しても、もうない。あの日の写真がどこにもないという喪失の証明を、最後に僕は650円で買い取ったのだった。

それから銀座線で京橋まで行き、art space Kimura ASK?というギャラリーで、まちだリなさんの個展を観た。まちださんの生み出したアニメーションや言葉を視界に入れると、耳の裏から無数の手足や触覚が伸びて、自分の背中の真ん中あたりの、目に見えないスイッチの位置を教えてくれる(ような感覚がある)。そんなスイッチが自分の身体に付いていることを、僕は普段知らない。でもスイッチは確かにそこに付いていて、それが持ち主に発見されて、押し込まれるのを待っている。この文章は、まちださんの作品を正しく説明していないかもしれない。とにかく、そのような予感を僕は勝手に受け取り、持ち帰る。自分にとってそのような作用のある作品と作家を、僕は本当に、片手で数えるくらいにしか知らない。


8/12

朝食の前に散歩に出る。朝はまだ、日差しがやわらかく、暑さもいくらか落ち着いていた。8月は外出する予定をあまり入れていないので、近所を歩く時間を除けば、部屋にいることが多い。思い返せば、今年は4月から7月にかけて、外へ出かけるような用事が続いていた。色々な場所でさまざまな人に会う機会のおかげで楽しかったが、気がつけば体がだいぶ疲れてしまっていたらしい。やはり自分は、アトリエでこつこつ一人で作業をしている時間がいちばん落ち着くようなので、8月はなるべく規則正しい一定のリズムで寝食を繰り返して、なるべく細く長く、手を動かし続けることにしたい。生活と手仕事のタイムラインを基準に保ちながら、重心は大きく動かさずに外でできる仕事もする。これまでもそんな風に続いてきた。よく眠り、食事をとり、本を書く。機会があれば人に会う。作品が増えたら展示をする。出店をする。畑をする。旅をする。それを続けて、ゆっくりと変化しながら動いていくことをずっと、考えている。動くためには新しい刺激も必要である。最近特に関心があるのは家事だ。家事のことは今年から来年にかけて、個人的に研究したいと思っている。


8/13

前述の通り、フィルムカメラの現像には失敗してしまったが、かわりにiPhoneに入れているフィルムカメラ風アプリを最近好んで使うので、その理由を考えてみる。そもそもiPhoneには、初めから高画質のノーマルカメラが搭載されていて、たいていの写真や動画は比較的鮮明に撮影できる。そして画質にこだわらずとも、味わいのある質感や色味を追求するのなら、昔ながらのフィルムカメラという手立てがある。それでもなおフィルムカメラ風のアプリをわざわざ使うということは、それが持つ何らかの魅力にうっすらと惹かれているからに違いない。おそらく自分は、このカメラアプリが抱えている違和感に興味を惹かれているのだろう(あえてそこに言葉を当てはめるなら、〈遅れをとっている感じ〉とでも言うのだろうか)。

人類と撮影にまつわる遥かな歴史をたどれば、小さな穴からもれた光が壁に景色を写す様子こそが、カメラの起源であったらしい。そこから生まれた原始的でフィジカルなフィルムカメラという機構。一方、それを模倣しつつ新たな技術が埋め込まれたスマートフォンという利器。大きく分ければその2者が占める写真撮影の土俵に、突如として顕在したのがフィルム風カメラアプリである──。つまりフィルム風カメラアプリは、ローテクノロジーの持ち味をハイテクノロジーの俎上で発揮すべく生み出された悲しき矛盾の産物なのだ。懐かしさを呼ぶようなレトロな撮り味は、スマホのレンズを通して即座に撮影者に提供される。本物のフィルムカメラが持つ質感の近似値を、本物のフィルムカメラでは考えられないようなスピードで、手軽に自動保存してくれる。

その特性には、忙しい現代を生きる我々の要求が的確に反映されていて(撮影年月日の数字も、オレンジ色でちゃんと刻印してくれる)、それはとても理にかなったサービスなのだが、どこか全体に底知れぬ淋しさの漂うアプリなのだった。そういうアプリそのものが宿命的にまとわされた空漠とした趣が、撮影した写真のほうにも染みついていて、それが何だか気になってしまう。だから自分はこのアプリで、カシャカシャ色々なものを撮っているのだろう。ひとまずはそう結論づけることにした。

昼時に鎌倉の小町通りにあるカフェで新しい本の打ち合わせをし、担当編集者さんが手土産に塩をくれた。夏の休暇で訪れていた奄美大島の塩だという。奄美大島の「奄」という字の形は、特に複雑というわけではないのだが、ほんの一瞬目を離すともう元の姿を思い出すことができないような儚さがある。パッケージを見た時にそんなことを思った。調理につけ、食べることにつけ、塩には色々な使い道があるということを知ったばかりなので、今度料理に使ってみようかと思う。


8/16

台風が来るという予報なので、朝から部屋で仕事をしながら雨を待っていた。部屋のカーテンを開けて通りを眺めていたが、思っていたほどの雨雲はなかなか来ず、近くの電線にとまった一羽の鳩がまっすぐフンを垂らしているのが見えただけだった。雨は昼過ぎに少し強まり、そのほかは普段より音のない一日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?