マライアキャリーと粗品

マライアキャリーのbye byeという一曲は粗品のはるばらぱれという曲で要約できる

つまりこの世には普遍的なものがあって、それは何年先も続いていくことで繰り返していくもので、それが早いか遅いかの違いで、若干早めに経験すると少しだけ、あとの年月の物事の見方に若干影響が出るかもしれなくて、良し悪しあるかもしれないけれどそれすら良し悪しなどなく、ただ少しだけ歳を食って見えるかもしれない、そういう景色を見て、歩いて、今も生きているということがそうさせるということは言えるかもしれない

たまに思う、こういう想いを持ちながらままならないまま生きていくしかないことを“これから”経験する周りの人たちは、今という景色が一体どんなふうに見えていて、はるばらぱれって唱える日がやってきたときにどんな時間と想いを過ごしていくんだろう、歳を経てからそれに本当の意味で立ち合ったときの景色はどんななんだろう

自分がもし、それを唱えることすら心によぎる事のない日々を送る十代、二十代を過ごしていたならどんな自分だっただろう、少なくとも、コミュ障はここまでひどくなってなかったかななどとあれこれ

結局いつも金魚のフンみたいについて回るのがはるばらぱれであって、結局いつまで経ってもはるばらぱれして生きていくことも知っていて、それがどれだけ自分にとってなくてはならなかったものかを思い知らせてくれたのもはるばらぱれだった

ままならなくても、金がなくても、望んでない雲の上という暮らしも、ただのコミュ障泣き虫なりにやり過ごすしかない、ということ

雲の上の人を想う気持ちが強い人間は、現実世界で生きる生身の人間よりもなぜか影が薄く、雲の上の人を想うその人自身も雲の上のようなところとこの世とのすれすれの空間でふわふわと生きるようになるんだなと思った、とくに彼をみて

おそらく本人もそれはふとした時に感じていて、だから、芸術という目に見えない部分から生まれるようなことに吸い込まれていくのは当然のことだろうし、何よりそれが自分がこの『現世』みたいなリアルな世界でなんとか片足のつま先を離さないように生きていくための唯一の術なんでしょう

じゃないとその人、すでに浮いてるから
浮いていること(=何かを悟ってしまっているような冷たくて熱いこと)は本人が油断するとすぐにバレてしまうから

そうしないために、変な人であり続ける必要がある

もう半分以上は人間じゃないのに、人間のふりをすることに頑張り続ける時間を過ごすしかないから、生きてるうちは

ふとした時に見える、普通じゃ出せないあったかい表情や素ぶりは、全ては雲の上の人を想う時間に少しずつ積み重ねられたさみしさと怒りと憎しみ、そして許しの残り香です


さて今日も、はるばらぱれ

もういないのに、はるばらぱれ。


本日の執筆BGM : 粗品"はるばらぱれ"

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