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余剰、正体

なんとも形容し難い不快感を抱えて目が覚めた、肌を突き刺すような鋭い寒さの朝。私は何気なく時計に目をやると、時刻は午前5時を回っていた。別に早寝早起きの習慣がついていたわけでもなく、むしろ昼夜逆転気味だった生活を送っていた私にとってこれは非常に稀有な事態である。その上、正体不明の不快感の輪郭も掴めぬまま完全に脳が起きてしまったのである。

この頃からだろうか、1日を終え床に入っても私が眠りに落ちるのは、決まって日が登ってからになったのは。とりわけ、何かするべきこと、したいことがあって眠らなかったわけではない。むしろ、私は眠りたかったのだ。しかし、またどこからかやってくるあの不快感に邪魔をする。

そんな生活を数ヶ月続けた。私はついに眠ろうとすることを諦めた。

それからというもの私の1日は以前より少しだけ長くなった。この日常から余剰した刹那的な時間はいくつかの真実を私に教えてくれた。

それは、自身の奥底に隠れている本心や、それをまるで元から存在していなかったように虚勢を張っていたという目を背けたくなるような真実である。

「夜に書いた手紙は出すな」と世の中は言うが、それは夜はその日に起こった出来事を脳で処理する時間であるため、不安定になりやすく本来なら不要なマイナスな思考までも文字に起こしてしまうというような理由だった気がする。

たしかに、理に適っているし私自身も夜に書いた手紙は読めたものではないのも経験済みだ。しかし、手紙を書くことには不向きかもしれないが、思考を張り巡らせることに夜は、向いているのかもしれないと私は思う。

なぜなら夜は「不安定」だからだ。

ネガティブな思考が顔を出す夜だからこそ、自身の深層心理に触れる好機であり、その根深さや異常性に気付けるのではないだろうか。

きっと私に付き纏った形容し難い不快感の正体は、余剰に生じた不安定からくる素直な「不安や本心」なのだろうと思う。

だから案外、深夜に眠れずさまざまな思考にアクセスすることは悪ではないのかもしれない。

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