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まんなかの声を、聴き届けて生きていく 〜白浜久美子さん〜

私が感じたあなたを切り取り綴るshutter

ご依頼者様と対談して感じたこと、個性や魅力をまるっと言葉にして、お渡ししています。


この世界はいろんな声に溢れているけれど、あなたはいつも誰のどんな声を聴き届けていますか。

今回は、きっと、ものの声も人の声も、たくさん聞いてきた方、白浜久美子さんとの対談からのshutterです。


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久美子さんは以前からFacebook上で存じ上げていた方でしたが、今回の対談が初めまして。

私に会って話したい、そして私に「しらはまくみこ」を表現してほしい、会ったことがない人にも「しらはまくみこ」を知ってほしい

そんな動機でお申し込みくださいました。


初めましての時は、私も「どんな人がいらっしゃるのかな」という期待と、ソワソワ、お話しできるかしら・・というちょっとの緊張を持っていたりするのですが(でも大概その緊張は、いらぬものだったと、お会いしてわかります。)

久美子さんは、お会いした瞬間から、なんだかもう、ふわんとする落ち着きが会って。初めましてだけど、もう大丈夫。そんな感覚になって、一緒に歩きながらお話を始めたのでした。

京都のカフェで過ごした2時間半ほどの、お話の時間。

この対談はインタビュー形式ではなく、ただただ、ご依頼者様との対談・・・いわばおしゃべりを楽しみながら、「その時その方が話してくれたことの中に、私が言語化することの意味と価値がある」そう思って私はその時間を過ごすし、感受していくのですが

今思い出しても、久美子さんとのおしゃべりの時間は、とってもほのぼのとしていて柔らかな時間だったなぁと、冷蔵庫から出して溶けてゆくカップアイスの淵の柔らかさみたいな、感じ。


ちょうど、ひとつの節目にいた、久美子さん。


パートのお仕事もされながら、

ご縁があって始めたエスティシャンのお仕事。エステは好きだけれど、物販や講座は好きではないと気づいて、現在はフェイシャルエステ一本でお仕事され、

写真を撮られることを通して写真を撮ることにも興味が湧き、写真を学び、フォトグラファーとして写真撮影もされていて。

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昨年からは、ふと出会った調律ヘッドセラピーを「私もこれができる人になりたい!」と思い、そこからご縁が繋がってセラピストになって、施術もされている。


2020年をコロナ禍でもかけ進んできて、結果も出してきたのだけど、、、、「頑張ってきたけれど、流れを変えたい」そんな時でした。


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これまで、いろんな方と対談をしてみて、人それぞれに、声のトーンや強さ、話すスピードや語調は皆それぞれで、その言葉から、その人らしさと言っていいのか、いろんなことを感じるようになりました。

久美子さんとの対談は、本当に穏やかで、その声も仕草も、ゆったりとしていて、対話のラリーのスピードも穏やかな時の海みたいで。

ざっぱ〜ん!ではなくて、、

ざぶーーーーん・・・・ざぶーーーーん、ざぶん。

優しい波打ち際みたい。

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人の肌や心に触れるエステやセラピーをされているのも、すごく納得が行くし、きっと、久美子さんのそれは、柔らかくて穏やかな時間なんだろうなぁと、想像できてしまう、心地よさ。

そしてとにかく、お肌が綺麗で。透き通ってて。私より5つも上とは思えない、お肌の若さ。さすがエステの方。

きっと・・・ものにも、ご自分にも。丁寧に触れられている方なのだろうなぁって、そんなことを感じたし、あの対談の日の仕草を見ても、私のその予感は間違ってないのだろうなと、思う。

急がないペース、穏やかなる凪のような時間が大切な人、そんな印象。

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とはいえ久美子さんご自身は、好きでやってきたことだけど、だから頑張れたこともあるけれど「私にとっていちばん心地いい働き方、暮らし方・・・生き方のペース」はもう少し、違うのかもしれない。

そんなことを、思ってらした時でもあって。

何を、どうしていきたいのかなぁ

そうおっしゃる久美子さんに、

もし、お金というものの影響を全く受けることなく、何をしてどう生きても大丈夫、許されるとしたならば、何をして生きます??

そんなことを聞いてみたんですよね。

つい、お金や誰かに縛られて、できるかできないかとか、いいかよくないか考えてしまうけれども。でも、そういう・・・お金や誰か基準じゃない生き方をもっともっと自由に選んでも、そうすることを許しても。生きていけるのがこの世界なんじゃないか。だとしたら、どんな風に生きていきたい?


そこから膨らんでいったあの日の対話。


えーーー、もしそうなら・・・・と、浮かんできたいろんな話。

カフェが好きなことや、エステの話、

あらゆることが大丈夫だとしたら、やらないこと、やめること。

一つずつ浮かんでくる言葉、その源泉の気持ちを感じて

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そうかーってなったり、

ええええ、やっぱりここかぁ、なんてなったり。

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自分の気持ちって、わかっているようでわかっていなかったり

わかっているけれど、わかりたくなかったり、認めたくなかったり

気付きたくないことって、

案外「自分で自分をかくれんぼ」させちゃったり。

小さなことだけど、それに気づくことが、大きな布石になることも、あったり。

喜びを見つけたり。

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でも、そうして気づいたりするのですよね。

今目の前にあるものの中に、もう喜びや幸せのタネは十分にあって、いろんなものが得られていて、満たされるものだってたくさんあること。

新しい何かではなくて今していることの中に、好きや、喜びはあるんだということも。

そんな中で、久美子さんがあの日特に嬉しそうに話してくれたのは、写真が好きなこと。

それもね、人を撮るのも好きだけれど、ものや自然を撮ることも、とても好きだ、と。

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この時久美子さんとお話しして、私は、改めて

今この同じ時を共に過ごしていても、見ているものも感じていることも、私たちは全然違うんだってことをね、知ることになるのです。

同じ日、同じ時間にいて、私が撮った写真たちは、久美子さんの表情ばかり

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久美子さんが撮った写真は、見ている視線も、色合いも、全然、違うのです。

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シャッターを押す時、それは、そこに魅力を感じた時、心が動いた時。


人の表情が好きで、そのさまざまな一面を捉えたいと構えている私と

パーツ一つひとつを捉えて心が動かされ、写す久美子さん。


私はいつでもその人の表情からいろんな思いや思考を汲み取ろうとしながらシャッターを切っているその時に

久美子さんは・・・・

目に入る一つ一つのパーツの美しさを見出し、そこにどんな声があるのか、聞いていたのです。

例えば、トレイの角の丸みの美しさだったり、カメラのレンズの丸みのカーブ、物のラインの美しさとか。

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そしてこれがどんな物語になりうるかを、考えていたりする。

ものや人、その「部分」から感じる余韻

そこに心が動くから、シャッターを切りたくなる、久美子さん。


人だけではない、ものにだって、美しさがあり、そこから聞こえる声がある、だからそれを感じては心のうちで聞き取って言葉にしている、と。


ものの声・・・・・


好きなもの、大切なものは私にもあって、大切に扱うけれど、私はそこに、「声がある」と意識を向けたことは、ほとんどなかったなぁと



例えば、洗濯機・・・・(コピー機だったかな)の調子が悪い時も、なでなでして、ちょっと声をかけてあげる・・・・いつもありがとうね、なんて言いながら・・・そうすると、直ったりする


人だけじゃなくて、この世界にあるもの、それを「存在」として、意識や人格(物格?)を感じては、そこにあるストーリーを想像したり、対話を心の中でしている久美子さんの世界。

私の世界とは全然違う・・・・・

久美子さんの世界は、きっととても賑やかで、楽しくて、そして、優しさに溢れているんじゃないか

人だけじゃない、あらゆるものに「いのち」を感じて生きている

だから、きっと久美子さんにとっては、物は物であって、ものではない。

ものにも「いのち」を感じるからこその触れ方ってきっとあるんだろうなぁ・・・・お話を伺いながら私はそんなことを思い、久美子さんの穏やかな所作の所以を見た気がしたのでした。


そして、お会いする前に、お見かけした久美子さんのSNS投稿の写真が、なぜあんなにもあたたかみに溢れていたのかも、このお話を聞いて、納得。


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コーヒーをドリップする時のお写真から、きっとコーヒーを愛している方だろうな〜〜と思っていたのだけれど、それ以上の、コーヒーから感じる「いのち」があったからこそなのだろうな、と。

(久美子さんはほうろくでコーヒーを自家焙煎しているのです)

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久美子さんみたいに、全てのものは、物である以上に「いのちである」

そう感じて毎日を過ごしてみたならば。

今私の目の前にある、パソコンも、万年筆も、砂時計も、ノートたちも。もっともっと、愛しく優しく、触れてしまうだろうし、そんな風に過ごす日々は、今よりもっと、優しく楽しくて、愛しさに溢れてしまうのだろう。


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あの対談の日から、ふと、私も想像してしまう。

この一輪挿しは今私に、何を活けて欲しいって思ってるかしら・・・なんて。



お金があってもなくても、今何をしてもしなくても、全てが許されるとしたならば。


どんな時でも

写真は撮るかな。

セラピーもする。

 

あとは、もっとゆっくり・・・・

コーヒー飲んだりカフェ行ったり、移動カフェをするとかもいいかもしれない


写真はものの写真もたくさん撮って、本とか、出したいかも。ものの声たちを、載せていったら楽しそう

  

そんな話をつらつらとしながら、あの日は

そんな世界になったとしたら・・・・・

これは、やってないなぁ・・・・

えぇぇぇぇ、そうかぁ、やっぱりそこなのかなぁ。。。。。

そうかぁ・・・・・・


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気づいて、確かめて、そうかぁって、何度も、した日。


私たちは、生きていく中で何度だって選択をし直す。

あの時心から望んだことでも、時を重ね、経験を重ね、体感を重ねて行った先で

あの時本当にしたかったことが、もう、手放す時になることだっていくらでもあるし

あの時したくなかったことが、今本当にしたいことになっていたり

目を背けていたことが、心から望んでいることだったり・・・・


誰かのことや、いろんな事情や条件を全部全部投げ打って

ただただ、心の中から望むことだけにフォーカスしたならば

やっぱりどうしてもこれが好き

だって、あるのですよね。


あの時選んだことを今選ばないことにジャッジはいらないし


ただただ、心から望むこと・・・

過去も未来も関係なくて

「今の私」が心から望むこと、喜ぶこと、やりたいことを

ただ、選んでいい。


生きるってきっと

そういう

「今の本音」の積み重ねでできていくものなのかもしれませんね。


さて、これから、久美子さんの日々はどうなっていくのだろう・・・


変化の予感を、ふんわりと抱きながらお別れして。

あれから二ヶ月以上が経って

ふと、久美子さんのことを思い出し、ご連絡をしたら。


ちょうど、久美子さんも連絡をと思っていたタイミングだった、ようで。

あれからいろんなことがあって、

なんと、パートのお仕事を退社することに(メッセージの時は、あと二日出勤したらおしまい、というタイミング!)

それも、応援を得ての円満退社。


そのさなか、見て見ぬ振りしていたご自身の本音やいろんな部分を突きつけられることがあり、自分が崩壊した、と。


私は、頭で考えてばかりで、感じることをずっと後回しにしていた、そんな自分が信じられなくなった


そんなご自身に気づいて愕然としたけれど、でもそれを全部全部認めて受け入れたら、生まれ変わった気分だと


そして今は、

日常の何から何までを、いちいち感じているところです。丁寧に、一喜一憂せずに、やることやるだけです

と。


目の前に久美子さんはいないけれど、そのメッセージからは、清々しと日々を生きる楽しさが溢れてくるようでした。


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誰かや何かの言葉を気にして、浮いたり沈んだりぐるぐるすることも、悪くはないけれど、もう、その映画はおしまい。もっと広くてプロフェッショナルな人たちを見聞きして、自分を広げて行ける世界へ行くの


いちいち感じながら、一喜一憂しないで生きていく

そこでもやっぱり選んだのは

写真と、セラピーだった、久美子さん。

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今、新たに。

もう一度、ここから。


ちょっと、自分の感性を後回しにしていたかも、しれないけれど。

この世界のあらゆる物、存在に「いのち」を感じ、その声を感じながら生きてきた久美子さんが

もっと、ご自身の、その感性の声を聞き届けていきながら、進んでいかれるこれからの写真とセラピーとともに歩む道。


誰かや何かの求めをただキャッチして、動く、ではなく

誰かや何かの声を聞き届けながら、いちいち感じて「私はどうしたい?」の声とともに動く


それはきっと、片道の押しやったり押しやられる関わりではなくて、お互いの、心地よい動きで・・・自分と、誰かと手を繋ぎながら歩んでゆくような道に、なるのだろうな。


どんな道になり、どんな花が咲いて、どんな空が広がるのか。


久美子さんの写真が、これからの世界を見せてくれる、そんな気がしています。

Collage_Fotor久美子


すべてのものは、存在であり、いのちである。その声を聞き届けるように

私というこの存在、そのいのちの声も、聞き届けながら、生きてゆく。


声を、本音を、感じたままに、生きてゆく人生を、また、ここから、ですね。

大好きな写真とセラピーとともに。

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このshutterをしたためて一度久美子さんにお渡しした後、公開するのを、ちょっと忘れていた私。

すると、またもや。久美子さんからこんなメッセージをいただきました。

ちょうど読んだ本の中の言葉から、感じたこと。

『 あらゆるものの中に見える神を愛している』というところがあって⁡
急にね、そこにしっくりきたのです。⁡⁡
⁡でね⁡
その言葉を感じていたら…⁡
ふと気づきました。⁡⁡

⁡⁡写真を撮るときにファインダーごしに見るもの、お部屋に置いてるグリーン、見上げた空、かわいいなぁと感じるもの、美しいなぁと感じるもの、セラピーをしている方など、見たりそのものを感じるととても幸せで⁡⁡
⁡⁡
この幸せを喜びに表すと、『 あらゆるものの中に見える神を愛している状態』なんだなぁと一致したのです。⁡⁡
⁡⁡
そして⁡⁡
今まで意識を置いて見ていなかったものや、なんだか嫌だなぁ面倒だなぁと感じるものや人のことも、そうやって意識を置いて感じて見てみると、それらの中にも神を感じて。⁡⁡
⁡⁡
神を愛している状態になったとき、幸せを感じていたものも、嫌だなぁと感じていたものも、すべてが調和した状態になるんだなぁとわかった。⁡
⁡⁡
という次第です(笑)。


神という表現はわかりにくいかもしれないけれど、このshutterで私がものの「いのち」と表現したこと、その感覚は、ここに通じてしっくりくることに気づいた、それが嬉しいと、教えてくれた、久美子さん。

「神」という言葉には、魅力も魔力もあって、この一言をどんな意味にするかは、読み手によってかなり違うとは思うのですが、でも、なんとなく、久美子さんが伝えたかったことが、わかるような気がします。

目の前のものや人

その「表出していること」を全てと受け取り、私たちはついそこに善悪や幸せか幸せじゃないか、なんてしてしまうけれども

全ての存在のその中心には、何かこう・・・・万物の存在に欠かせない、大切な何かが、ある。

それを人は時に命と言ったり、神といったり、愛と言ったりする。目には見えない、でもその真ん中にあるだろう、それが、なんだかとても愛しいものだということは、人はきっとどこかで、知っている。そういう、もの。


その声を、温度を、きっと久美子さんは感じていたい。いや、感じてしまう、のかな。


あなたは、いつも誰のどんな声を聞き届けていますか?


全ての中にあるだろう、まんなかの声を。

それこそを聴き届けていこう、そんなことを思ったのでした。

  

久美子さん、この度はありがとうございました。次回は、調律ヘッドセラピーを、ぜひお願いします。^^

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