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自分との対話としての登山

(2017年3月ごろ、あるニューズレターに掲載のために作稿)

 昨年が没後100年、今年が生誕150年ということで、ここのところ夏目漱石の関連書籍が数多く刊行されている。ということは漱石は49歳で亡くなっているわけで、40代も半ばとなった身としては若干焦りの気持ちが生まれている。
 夏目漱石の小説は、冒頭が印象的だ。古今東西、小説であれ論文であれ企画書であれ、冒頭はもっとも重要とされる。その結果、名文が多いのだろう。
 わたしがもっとも好きな漱石の文章は、以下のものだ。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
 ごぞんじのとおり『草枕』の冒頭部分であるが、この文章はたんに「人の世」を慨嘆したものではない。「そんな世の中ではあるが、自分は愛する芸術を武器に戦い、芸術の力で世の中を豊かにしたい」という、画家である主人公の決意表明でもあるのだ。
 近年は空前の登山ブームで、その魅力や効能が語られることが多い。曰く「年齢を問わず自分のペースでできる適度な運動」、「大自然のなかで都市生活のストレスを吹き飛ばそう」などなど。
 そのどれも間違いではないと思う。が、わたしとしては、どうもしっくりこない。登山がカラダやココロによいことは充分に体感しているつもりだが、そのために山を登っているわけではない。
 ではなぜ登るのか?——「そこに山があるからだ」といいたいところだが、それが許されるような華々しい実績があるわけでもない。
 現時点でのわたしなりの答えは、こうだ。「『草枕』の冒頭のように、社会と自分の現状分析をし、自分なりの生き方の方針を決めるため」に登山をするのである。
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 たとえば国内2位の標高を誇る南アルプス・北岳の山頂付近のように、森林限界を超えるくらいの標高になると、山道はその本質が露わになる。「道をはずれると、すぐに死ぬ」という本質である。とくに右も左も断崖絶壁の稜線歩きなどでは、ちょっとした気のゆるみが即、滑落・遭難につながる。
 そんなとき、わたしは「いまここで足を踏み出したらどうなるかな? 家族は悲しむかな? やり残した仕事は無事終わるだろうか?」などと夢想することが多い。おおげさにいえばタナトス(死の欲動)ということになるだろうが、わたしのそれは、そんな大層なものではない。ただ、「自分の死をコントロールできる状況」を楽しんでいるのだ。
「いま、この右足を踏みはずせば、すぐに死ぬことができる。でも、まだやることがあるから、右足で大地を踏みしめることにしよう」という確認作業を一歩一歩することによって、「ところで自分はなんのために生きているのだっけ?」、つまり「生き方の方針」を確認したり軌道修正したり、ときには大幅に変更しているのだ。
 わたしの兄は20年以上前、冬の富士山で遭難死した。単独行だったので、死に至る経緯はよくわからない。遺された手記などで想像するしかない。
 ただ、なぜ登山をしていたのか? という質問にはかんたんに答えることができる。彼もまた、いまのわたしと同じような作業を山の上でくり返していたのだろうと確信しているからだ。
 山を登ることは、最終的には孤独な作業だ。何人の仲間と連れ立って登ろうが、あるいは単独行であろうが、その孤独さは変わらない。山の難易度や登山者の能力も関係ない。それは、「人は他人の死を死ぬことはできず、自分の死のみを死ぬことができる」ことを、ひとりひとり別々に、その人に合った形で気づかせてくれるからだ。
 わたしはそういう理由で登山が好きだ。

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