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二条城

はじめに
 二条城と聞くと、大政奉還を想起する者が多いであろう。筆者もその一人であった。しかし、この春に二条城の傍に引っ越してきて、二条城の周りをランニングしたり、入城する中で二条城の奥深さと豊かな個性を見出すことができるようになった。例を挙げれば、枚挙にいとまがないが城の構造は大変興味深く、他の城と比べてもかなり計算つくされた設計であると感じることができる。また、住んでみないと分からないことや教科書では教えられない歴史秘話なども分かるようになってきた。次章ではまず、二条城の変遷をたどりつつ現代の二条城がいかにして形成されたのかを明らかにする。そして、その次の章では歴史の大きな転換点となった「大政奉還」にフォーカスし、幕末を生きた者たちの志に思いを馳せる。最後にこの二つの章から導き出せる二条城の歴史を総括し、京都の世界遺産のなかでの二条城の役割や位置づけを総括する。

二条城の変遷~その時代における特徴とその変化~
 全国的にはあまり知られていないが、京都には織田信長が1569年に築いた旧二条城というお城が存在した。位置としては現在の京都御苑の傍、平安女学院の敷地を中心とした400メートル四方に広がっていたという。目的としては室町幕府第15代将軍足利義昭公の上洛後の居所として比較的短期間で造営された。わずか70日間の間に二重の堀と三十の天守を備えた堅固なお城であったと伝わっている。その後信長と義昭が対立するようになり、義昭が二度目の挙兵を行うと信長軍が二条城を包囲し、戦いを交えぬまま義昭方は降伏し、二条城を明け渡した。その際に御殿などは兵士により破壊され、店主や門は解体されたのち、安土城の築城に使われたと言い伝えられている。
 時代は流れて慶長6年(1601年)に関ケ原の戦いに勝利し、征夷大将軍に任ぜられた徳川家康が上洛時の宿所として現在の二条城の築城を決定、翌年の5月に着工を開始し、さらにその翌年の三月に落成した。天守については慶長11年(1606年)に完成した。
 慶長16年(1611年)にはかつての天下人の嫡男、豊臣秀頼との会見も二条城において行われたという。そしてそのわずか3年後の慶長19年(1614年)には徳川家康公は二条城より出陣し、大阪城へ出撃したとされている。
 それから約250年後の幕末、一橋慶喜の江戸幕府第15代征夷大将軍への就任が決定すると、慶応2年(1866年)に二条城にて将軍拝命の宣旨を受けた。翌年の九月には宿所を二条城に移し、その翌月に大政奉還、将軍職返上を行った。新政府樹立後の明治4年には京都府庁として使われるようになる。二年後の明治6年には陸軍省に所管が移動し、明治17年には所管が宮内省に移動し、名称も「二条離宮」となった。


大政奉還
 二条城での歴史的出来事の代表格である「大政奉還」。大河ドラマなどでもその前後の動乱はドラマチックに描かれ現代を生きる私たちに歴史の大きな転換点であったことを示唆している。江戸幕府の最後の将軍がなぜ、江戸ではなく京都の二条城で大政奉還をしたのか。二条城で大政奉還をしたことから分かることは何かを大政奉還の流れを通して考察していく。
 大政奉還に関してどこから論じるべきかというのは非常に難しい論点ではあるが、筆者は一橋慶喜の将軍就任から歴史を振り返ろうと考える。
 長州征伐のさなかに徳川家茂が大阪城で死去すると、慶喜は積極的ではなかったが最終的に将軍職に就任した。しかしそれからわずか十か月後に薩長が討幕の密勅を手に入れ、討幕を果たそうとする直前の絶妙なタイミングで徳川慶喜は二条城の二の丸御殿にて大政奉還をした。実に260年に及ぶと江戸幕府の政治の終焉を宣言したのである。二条城の二の丸御殿では当時の将軍や家臣たちを模した人形が設置されている。家臣たちが並んで座るその先には一段高くなっている畳の上に将軍慶喜と、その傍に慶喜の刀を持った側近が控えている。これらの構図からだけでも当時の文化やしきたりなどを理解することができる。さらにこれがわずか150年前の出来事であることを理解すると日本の急激な近代化と日本の古来からの淘汰された多くの文化を感じることもできる。


おわりに
 この「二条城」という城には面白い共通点がある。その一つとして室町幕府15代将軍の居所であり、江戸幕府第15代将軍の居所でもあったという点である。さらにこの二人の将軍はともに「最後の将軍」であり、大きな歴史の転換点に居合わせているのである。この二条城という城は新たな歴史を生み出すような力のあるお城なのかもしれない。
 さらに私が日常的に二条城を見ていて感じることは、お堀の外からは城の中が全くと言っていいほど「見えない」ということである。城の中に入れば本丸の天守跡からは京都の町を見渡すことができるほどの高さがあるのが分かる。しかし外からはそれらを全く感じることができないのである。なので外から見ているだけではこの城のすごさを感じることは出来ないと感じる。この城が世界遺産である所以を感じるにはやはり一度音連れてみる必要がある。このコロナウイルスが終息したならば一人でも多くの方が訪れて、その良さを理解して売れる方が増えたら触れしいと感じる。

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