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「はて?」の感度とフィリピンのインクルージョン

とらちゃんの「はて?」


NHK朝の連続ドラマ「虎に翼」が、過去一の面白さで、フィリピンにいながら欠かさず視聴しています。
もともと法廷モノのドラマや映画は好きなのですが、このドラマの主人公 猪爪寅子役の伊藤沙莉さんの、

「はて?」

と、首を傾げるシーンがとても印象的で、そこから発せられる素朴な疑問と問題の提起に、いつも感動を覚えます。

なぜ男性は裁判官になれるのに、女性はなれないのか。
なぜ男性と同じ試験を受けているにもかかわらず、男性と同じ土俵にすら立てないのか。

なぜ女性が男装をしてはいけないのか。
なぜ女性は容姿で判断されるのか。

「はて?」「はて?」「はて?」

と。

今の私たちからすると、彼女の「はて?」は至極共感できる事ばかりです。もしその時代にタイムスリップしたならば、あまりの理不尽さに毎日がストレスと怒りと悔しさに溢れてしまいそうです。しかしそれは、「今」という時代から「過去」を振り返ってみているから感じられていることなのだと思います。果たして、その時代に生まれ、その時代に生きていたならば、同じような感覚を持てたのだろうか、、、。
「今」はどうか。
「今」、果たして彼女と同じ様な感度で、常識だと思っていることを「はて?」と疑問視することができているだろうか。

私の場合、過去のフィリピン留学時代の衝撃などもあってか、良くも悪くも「なんとかなるかぁ」「こんなもんかぁ」「これはこれで十分に幸せやねぇ」と割と楽観的に受け入れてしまう為、余程の理不尽な仕打ちでなければ現状を疑問視して立ち向かうという発想に至ることができなかったりします。
あるいは、頭では「これって、何かおかしくないか?」と感じていても、突き詰めて自身の行動に移すところまで至れない。この一歩を、ふと感じた違和感を逃さずに踏み出すことができるか否かが、とらちゃんや、世の中で活躍されている非凡な方々との差なのだとつくづく思います。わかっちゃいるけど、、、なかなかどうして難しい。

フィリピンのインクルージョン

フィリピンに来て感じた「イイな」と思うことの一つが、インクルージョンのレベルの高さです。
「インクルージョン」とは「包摂する」という意味で、LGBTQなどのジェンダーや国籍、世代など、多様性(ダイバーシティ)を構成する個々の異なる属性や個性が受け入れられ、互いに尊重されている状態を言います。

これは25年前にフィリピン大学へ留学した時にも感じたことですが、フィリピンでは特にLGBTQに対して寛容な社会で、皆がオープンです。
留学当時の寮で同居していたフィリピン人の学生もゲイでしたが、あっけらかんと恋人の男性を連れてきていましたし、昨年末に開催された会社の年末イベントでは、ホテルのパーティ会場の舞台で500人の同僚を前にゲイの同僚が自己紹介の中でゲイをネタにジョークを飛ばし、大喝采を受けていました。自分をネタにジョークを飛ばす本人にとっても爆笑している同僚達にとっても、ゲイである事自体が「カミングアウト」という言葉を使うような意識する/される事柄ではなく、自然で当たり前に受け入れている状態だからこそ成せる事と実感しました。
こうした感覚は、あくまでも私の個人的体験の範疇から見た印象ではありますが、なかなかここまでインクルージョンが進んでいる国は無いのではないでしょうか。
少なくとも日本ではなかなかイメージできないシーンのように思いました。

聞こえてきた声

そういえば、公益社団法人ACジャパンの「聞こえてきた声」というテレビCMは、まさに自分の「Unconsious bias(無意識の偏見)」に気付かされるものでした。
男女の偏見を持っているつもりはなく、「男性だから」とか「女性だから」だとか、「男性らしさ」や「女性らしさ」という価値観や概念が「はて?」と思うのは当然と理解していながら、聞こえてきた声は、、、「はて?」、それぞれ、なぜ男性や女性、男の子や女の子だったのだろうか。

そう考えると、無意識のうちに偏見を含む発言や行動をしていることがあったのかもしれないと、改めて考えさせられる広告でした。

不適切にもほどがある!

今年の1月からTBSで放映された「不適切にもほどがある!」も、時代を跨いで露見する、それぞれの時代の理不尽な慣習や価値観を表現したものでした。
今から思えば、昭和ってこんなに下品な時代だったかな、、、と思いつつ(多少ドラマとして誇張した演出ではありましたが)、今では忘れられてしまったような、ともすれば「面倒くさっ」と感じる人情味溢れる「良さ」をもつ時代だったように思います。

結局、どの時代においても、どんな文化においても、
「過剰に気を使う」
「過剰に反応する」
「過剰に絡む」
「過剰に拒否する」
と、軋轢やストレスを生むのでしょう。
それぞれが本来は軋轢やストレスを生まないためのことだったとしても、全てを包含できるような完璧なことなど無いわけですから。

「不適切にもほどがある!」では「寛容になろう」と締めくくっていました。
寛容であることが異なるジェネレーションやジェンダーなどの価値観の間の溝を埋めて、うまくコミュニケーションをとっていく鍵である、と。

「寛容」である事の重要性は、フィリピンに来て色々な意味で実感します。ある意味、寛容でないと生きていけないです。逆に寛容になれば、どうとでも生きていけそうです。
寛容な国 フィリピン。是非、未体験の方は一度お越しくださいww

ではでは、今日はこの辺で。
Bahala na! (なんくるないさ!)