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【小説】一星欠けた 第3話

株式会社原黒はらぐろ商会営業課主任、里神楽シュロは気が塞いでいた。
電車の音も喧しい富士そばで早めの昼食を済ませると、取引先へ転ぶような足取りで急いだ。

シュロの勤め先は人材派遣会社だった。会社が雇用した社員を派遣先へ送り込む。営業課主任のシュロは、自社の社員が派遣先に嫌われる事なく且つ不適切に親しみ過ぎる事なく働いているか、はたまた雇用先が自社との契約を打ち切る目論見を立てていないか、面談日という名目で月に一度、偵察に行かなければならなかった。普段は雑用係のようなシュロだが、この日ばかりは名実ともに主任らしい任務を求められる。もっとも営業課に主任は七名もいたが。

この面談日が憂鬱だった。
取引先の社員から「何しに来た」と白い眼で見られるのも苦痛だが、自分の会社の派遣社員にも馴染めなかった。連中は本社から偵察に来る正社員を敵視していた。少なくともタンゴにはそう見えた。
人の集まる処にヒエラルキーあり、ヒエラルキーある処に憎悪あり。
哲学とも人生訓とも只の諦観もつかぬこの言葉を、34年間の人生の箇所々々で噛み締めざるを得なかった。今の仕事に向かないのだ、働く事全般に向かないのだ、こんなどうでもいい事より早くアパートに帰り、陰茎の先から尿道プラグを差し込みたかった。今の尿道にはちょっときつめの太さを選び、奥まで差し込んだ後は数ミクロン単位の幅で陰湿に揺らし続け、深い深い嘆息を身体の奥底から絞り出したかった。
今週、同僚の主任が辞めた。理由として挙がった二三の噂があった。どれが事実であっても、この日シュロは代打で彼の担当エリアへ出向かねばならなかった。
取引先の営業所が見えた時点でハッとした。
初めて行く取引先、初めて会う自社の派遣社員だというのに事前の知識が一切なかった。資料に目を通すのを完全に忘れていた。敵地へ丸腰で乗り込むのか。資料など読まなくても舌先三寸で乗り切れる優秀な人材ではなかった。敵は見透かすに決まっている「とっとと帰れピン撥ね野郎」自社社員の眼が怖い。

取引先から借りたのは、窓のない物品庫だった。
ノートパソコンを立ち上げ、辞めた同僚のフォルダーを開き、それらしい体裁を整えた。
最初に面談したのは年嵩の女性だった。貸与された作業着の薄汚れた袖口に目を落とし、他の派遣社員からおかーさんと呼ばれていると頬をほころばせた。

「みなさん真面目に働いていますよ、先月来たばかりの彼なんかも。ちょっと覚えは悪いけど腰が低くて、言葉遣いも丁寧で。新しい業務につく日は1時間も前に出社するんですよ、あの子。子って年でもないか。まだ不安な事とかあると思うから相談に乗ってあげて下さい」

女性は愛想のいい笑顔で物品庫を出たが、その時にはすでに最前聞いたシュロの名前を忘れていた。シュロは次の社員が来るまでの間、残りの者たちについての下調べを始めた。躍起になって社員情報のデータを読む。スクロールする指が止まった。ある名前が眼に飛び込んだ。忘れたくても忘れられない名前が、スクリーンにあった。

十条タンゴ。

なんであいつの名前があるんだ。

ノックの音がする。
小柄な猫背の男が入って来た。
作業着はぶかぶかだ。右足を引きずり、左の耳に補聴器を着けている。
切り揃えられた長い前髪から上目遣いでこちらを見る眼は、微かに揺れながら湿った色をしていた。少しばかり人に慣れた小動物が保護センターで見せる眼だ。餌が欲しいのか。
いや。それよりも。
小柄な体躯も目尻の吊り上がった大きな瞳も高い頬骨も小さく尖った顎も、二十年前の彼奴そのままだ。

「………十条、タンゴ」

名前を呼ばれ、男の黒目が一刷毛墨をひいたように濃くなる。しかしそれはすぐにまた、野生と飼育の間を揺れる小動物の目に戻った。

「里神楽シュロくん、だね」

笑っているように開いた唇は、痙攣の為だった。椅子の背凭れに置かれた指も震えていた。シュロが逃げ出したい衝動をどうにか抑えているうちに、タンゴの顔が真正面の高さに降りて来た。くぐもった声でタンゴが話し始めるまで、長い長い時間があった。

「シュロくんが今の僕の上司なんだ。何だか不思議だね」

その声に、かつての煌びやかな悪意はなかった。生気がなかった。

シュロくんは立派になったね、僕と同い年で主任か、スゴいね僕はてんで駄目だよ聞いてるでしょ会社から僕の成績が良くないって、ミスが多いのは分かってるんだ、この間も出荷前の化粧箱全部ひっくり返しちゃっておじゃんだよ、って全部会社に伝わってるか、これでも分かってるんだ駄目な奴だって、あ違うよわざとミスをしているって意味じゃないんだ誤解しないで勤務態度だけは減点されないように頑張ってるんだ今朝は面談日だから二時半に目が醒めて目覚ましが鳴る何時間も前だけど目が冴えて今日は営業所で何を言われるんだろう、まだ夜明け前なんだから落ち着かなくちゃ、暗い部屋って自分の心臓の音がよく聴こえる………………話の半分以上は耳に入って来なかった。

目の前にいるのは、かつてのタンゴではなかった。
入れ物はあの少年に二十年を足した姿だが、中身は違っていた。
何故だかすっかり傲慢さを失っていた。
話の途中で見せる照れ笑いは、優しそうですらあった。
腰の低さも、おかーさんと呼ばれる女性の言った通りだ。彼女みたいに職場の仕切役を買って出るタイプではないかもしれないが、今迄は少しばかりミスもあったかもしれないが(そんな話だったよな?)大事なのは先ずチームワークであるし(と社員研修で教わったし)、こんなに大人しいのだ、だったら決まったルーティンを何も考えず、退屈もせずにこなせそうだし(そういう人材も必要だ)、入れ替わりの多い派遣業界だ、現場の下支えをする歯車として不足はないじゃないか。
だから昔のタンゴとは違うのだ、シュロの臍の辺りが熱くなっていた、一つの言葉に捉われていた。

許せ、許せ、許せ。
許すのだ。

おれだって二十年前のおれとは違うんだ、いや違くなれ。この前会った十七歳(自称)にだってフトコロの広い男だって思われたかったんだろ、お金を払ってヤらせてもらうだけじゃ寂しいんだろ、違う!あの日はヤらせてもくれなかったじゃん。もてたいんだろシュロ。そうだよ!おれはオトコノコのふっくらとしたおしりに思う存分顔を埋めたいんだよ!「おしり触ってもいい?」遠慮がちに許可をもらってオズオズとした指遣いでサワサワモミモミするだけじゃ穴が埋まらないんだよ、くっきりとした日焼け跡が残るおしり、日に一度も当たったことのない真っ白なおしり、今までお金を払ってきた幾つものおしり、おしり、おしり……。
「あーん、返してよぅ」
小さなおしりを剥き出しで教室を駆けずり回るのは、中学生のシュロだった。白ブリーフが頭上を飛んでいく。シュロは片手で股間を抑え、残る片手でいじめっ子からいじめっ子へと渡るブリーフへ手を伸ばす。
「返してやる?」
許可を与える素振りをひけらかす。それを聞く十条タンゴは、得も言われぬ上品な笑顔。次の遊びに移るサインだ。それに耐えられるかと計算する、上目遣いで少年達の顔を窺う。次は多分あれ、マジックペンで尻に汚い言葉を書き殴るあれ、あれに我慢すればいい。
「返して下さい、なんでもします」
尻向けろ、いじめっ子がマジックペンを取り出す。身体の向きを変えようとしたところで、タンゴがペンを奪い取る。
「じゃあ、これケツに突っ込めよ、何でもするって言っただろ」
息が止まるほどの力でペン先が喉に突き立てられる。
タンゴはマジックペンに唾を吐き、指で伸ばす、ほらローション塗してやったぜ、これで出来ないはないよな?
ミシミシと音がした。
軋んで歪んでよじれて裂けて、視界一杯に真っ赤な柱が立った。あの肉の音を今でも鮮明に覚えている。
ああ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ厭だ、思い出したくない、差し込め、差し込め、尿道に差し込むんだ、シュロ。
シュロはおのれの陰茎に尿道プラグを差し込む場面を想像した。つらい時、苦しい時はいつもこの場面を想像した。会議室で上司から叱責されている最中、通勤ラッシュで態と体当たりされた後、シュロはこの場面に駆け込んだ。安全を万全にするためにプラグにローションをたっぷり塗った。期待が高まり、すでに尿道からは透明な液が盛り上がっている。プラグの先端が尿道とコンタクト、未知の生命体のいる惑星に宇宙船が降りていく緊張感とときめき、何度挿しても未知との遭遇、この痛みは正義だった、この痛みは正義だった、この痛みは正義なんだ!
物品庫の机の下で、シュロの手はおのれの股間をまさぐっていた。
その手に力が入った時、我に返った。上司に怒鳴られている最中だって、手は臍の前で重ねていた。タンゴの顔を盗み見る。机の下の手の動きには気づいていない様子だった。
シュロの眼球の動きを、タンゴの眼は素早く捉えた。コンマ一秒後に視線を外し、コンマ二秒間眼球をさまよわせ、コンマ三秒間見つめ返してまた外した。
君の視線と僕の視線が触れあっても良いのかいと、ためらいながら尋ねていた。
何処かで見たことのある眼球の動きだった。俺だよ俺だ俺じゃないか、シュロはさらに股間を握りしめる。タンゴとその仲間に許しを請うシュロ、上司や同僚、派遣社員の腹を探るシュロ、触ってもいい?おずおず尋ねるシュロ、タンゴの眼輪筋と目蓋の動きが丸ごとシュロの眼に覆い被さり、タンゴが俺で俺がタンゴで……二人で一つ?それだけは止めてくれ。

「……この身体がいけないんだ、ちょっとした事故に遭ってね、後遺症で耳も聴こえないし重い物も運べない、もっと違う仕事がしてみたいって思う時もあるけどどうせ面接で落とされる、でも障害者を雇うと法律上優遇されるんでしょ、こんな僕でも会社の役に立っているんだって考えると、今日も職場へ行こうって午前二時の真っ暗な部屋の中で……」

睾丸がゴロリと手の中を移動する。オマエそんな御託より他に言うことあるだろ、オマエおれに謝ってねえだろ。

「……でもやっぱり大事なのは人柄だよね、それがようやく解ったんだ、僕が優しくしてあげればみんなが僕に優しくしてくれる、この身体のお陰で人の有難味が解ったよ」

シュロは立ち上がっていた。
椅子が後ろに倒れていた。
おれだってお前に優しくしてやっただろ貸してくれって言った物ぜんぶ貸してやっただろ何一つ返してくれなかっただろ生えたばかりの陰毛も尻の穴ぼこも使わせてやっただろ「北斗七星にしてやるよ」って穴開けさせてやっただろ終わりにしてほしいから穴開けさせただろ終わりなんか一つもくれなかったじゃないかあの傷痣になって残ってるよいつ消えるんだオマエ教えてくれるのか、酸欠の魚のように口を開閉するシュロをタンゴは驚きながら見上げていた。

「シュ、シュロくん、どうしたの?気分悪いの?」

貴様なんかくびだ、馘。
法律と社則と社会規範で雁字搦めにされた会社員に、そんな事を言える自由は微塵もなかった。

「め、め、め、面談は終わりだ、終わりです、ハイ、終わり。です」

物品庫を出る。出口を探す。



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