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【近未来短編小説】「運だめし」

 (本作は、西柊星のペンネームでKindle本として出版されたSF短編集『森の人々』に所収された同名の短編を改稿したものです)


 十二月初旬にしては暖かい日だった。職場から最寄り駅までの数百メートルを速足で歩くうちに、藤野進の肌はもう汗ばんでいた。
 立ち止まってスーツの上に羽織っていた薄手のコートを脱ぎ、脇に抱える。再び歩きはじめた藤野の目に、駅前の宝くじ売り場が飛び込んできた。横断歩道の向こうに、もう五十人ほどの男女が列を作っている。年齢は三十代から七十歳以上まで、ボロボロな服を着ている者も、そこそこのブランド品を身につけている者も、杖に頼る者も、車椅子に乗っている者さえいる。彼らの共通点は、全員がマスクや帽子やサングラスで顔を隠していることだけだ。
 横断歩道の信号が青に変わり、人々が駅に向かって歩きはじめた。藤野は地下道の方に向かい、その入口手前で内ポケットからサングラスとマスクを取り出して着用した。会社の同僚や上司に目撃されたくなかった。年末ジャンボ宝くじを買っているところを目撃されでもしたら、しばらくは嘲笑と憐れみの対象にされてしまうことは必定だ。上司は彼に非難の目を向けるだろう。だがそれらはすべて形式的なことで、半月もすれば進が無断欠勤しても誰も何も言わなくなる。まるで最初からいなかったように忘れられるのだ……。
 もはや誰もその由来に関心を示さなくなったクリスマスソングが、どこからか空しく響いていた。いつの間にかもう師走だ。年に一度、最大の「運だめし」の機会がやってくる。藤野は何ヵ月も前からこの日を待っていた。
横断歩道の青信号が点滅しはじめたのに気づいた彼は急いで車道を渡った。列の最後尾に回って立つ。前に並ぶ人々は年齢も風体も多様だとはいえ、一様に沈鬱な雰囲気を漂わせている。
 宝くじは勤め人の帰宅時間に合わせて午後五時三〇分から発売されるが、それは形式的な決まりごとだ。無職であろうと自営業者であろうと、三十三歳以上の国民は誰でもこの宝くじを買うことができる。だが、完全に合法ではあっても、それを買うという行為にはどうしても後ろ暗さがつきまとう。ただの運だめしではなく、社会からの逃避を意味するからこそ、彼らは顔を隠しているのである。ほとんどの通行人たちはわざと彼らを見ないようにして足早に通りすぎるが、中には好奇と同情の入り混じった目で一瞥をくれる若者もいた。大学生か専門学校生だろう。彼らは「新・年末ジャンボ」を買う人間の心境を理解するにはまだ若すぎる。
 この逃避の形式は公認されていた。宝くじによる収益は公共事業の財源となっていて、ほとんど回復の見込みがない失業率の上昇をこれ以上悪化させないために使われていた。それだけでなく、この制度を倫理的な観点から是認する人も多かった。公衆の面前で購入者たちを罵倒したりすれば、彼らだけでなく通行人によっても袋叩きの目に遭うだろう。「不運」による絶望を癒す特効薬などないことを、皆が知っているからだ。
 新制度下における年末ジャンボ宝くじは昔のそれとはまったく別物であり、発行数の一パーセントに満たない当選者以外の人々にとっては、彼らの存在自体の消滅を意味した。生存率はロシアン・ルーレットよりも低い。くじが外れた人々が「消滅」する方法は熟慮されたものであり、苦痛もなく事後の清掃の必要もほとんどない。斎場で供される一瓶の清々しい飲料、安らかな永遠の眠り、そして火葬だ。眠りに先立って〈不要者〉たちは最高のVR体験ができ、そこでは人生最良の日々が再現されるらしい。
 列の最後尾に並んで自分の順番を待ちながら、藤野は考えた。今ならまだ引き返すことができる。宝くじを購入しなければ何のリスクもない。単調で、真綿で首をじわじわ絞められるような毎日が続くだけだ。たぶん、あと十年くらいは……。だが同時に、一生自分の好きなことだけをして生きられる一発逆転のチャンスもない。
 ――俺はもう〈不要者〉なのだ。今の自分に、失うものがあるだろうか……。
 容姿もパッとせず、同僚たちと比べて能力が劣ると評価されてきた三十五歳の藤野にとって、会社での仕事はもはや精神的苦痛しかもたらさなかった。直属の上司である青木が年下だということもあった。このまま四十代まで今の会社に勤め続けることができたとしても、名前だけの「主任」以上に出世できるとは思えない。不安定な個人事業主としての再契約を迫られるか、最悪の場合リストラされるのが落ちだ。かといって、国内の失業率が相変わらず二〇パーセント近い状況で、彼には独立して生きてゆくだけの技術もコネもない。彼には大した趣味もなく、恋愛の経験もほとんどなかった。性的に淡白なことも彼の人生を単調にしていた。女性との接触を避けていたわけではないが、積極的なアプローチもしなかった。総合的に見て、彼の前途には孤独と失望しかないことは明白だった。それならば、たとえ何千人中一人にしか与えられないチャンスでも、それに一生を賭けて何が悪いのか……。
 五年前から、独居老人には健常者でも申請できる安楽死が、不運続きで絶望した中年以降の人々には新・年末ジャンボ宝くじが、人生のけじめをつける手段として与えられている。その施策によって、日本社会は多少活気づいたようにさえ見えた。社会的不要者の愚痴や人生相談を聞いたり介護したりといった厄介な仕事は減り、ごく少数とはいえ、宝くじの賞金で第二の人生を始めて社会に貢献し幸福になれた人々もいたからである。
 新・年末ジャンボの当選者の中には、マスコミに取り上げられる者もいた。例えば、大学受験に失敗してから引きこもり続け、ろくに社会経験も積まずに小説家を目指していた三十代前半の男は、賞金で世界中を旅して見識を広め、大人の鑑賞に堪える作品が書けるようになっただけでなく、旅行中に知り合った東欧美女と結婚までした。また、研究費の使い込みが判明して学界を追われた若い女性研究者は、金だけが物をいう某国で怪しげなビジネスを始め、実業家として大成功を収めた。彼らに対する道徳的な判定はともかく、彼らは日本という、宗教的基盤のない「恥の精神」が浸透している国で、不要者のまま一生を終える不名誉を避けることができたのである。彼らとしては十分、満足できる成果を挙げたと言えるだろう。
 藤野の前にはもう二人しかいなかった。ふと後ろを振り返ると、まだ三十人ほど並んでいる。列の最後尾辺りにウロウロしながら並ぼうとしているのが数人。新・年末ジャンボの発行総数はせいぜい五万枚だ。ここで宝くじを買う人間のほとんど、賞金をもらえない九九パーセント以上が、来年の一月中にこの世を去ることになる。わざわざ外れを引こうと思って買う者は誰もいないだろうが、確率的には死への片道切符を買うのとあまり変わらない。これまでずっと運が悪かった人間たちが、最後のチャンスを求めてこれに賭けるのだ。死への覚悟ができていないなら最初から並ぶべきではない。だが、ごく稀にはこの期に及んで奇跡を信じている人間もいて、彼らは確率の概念を分かっていない(だからこそ「奇跡」などという前時代的な概念を後生大事にしているのだ)。そのような人間は、自分の買ったくじが外れたという事実と折り合うことができずに国外逃亡を企てることもあるらしい。だが実際、逃亡は不可能である。
 藤野は自分の後ろに並ぶ人々の中に門野歩美(あゆみ)の姿をちらりと見た気がした。栗色がかった豊かな髪に縁どられた色白の顔の輪郭には見覚えがあった。だが、彼女の最大の魅力であるアーモンド形の澄んだ瞳はサングラスに隠れ、時折ほほ笑むと男性社員をどきりとさせた艶やかな唇もマスクで見えなかった。
 ――彼女がどうしてここに……。藤野進は一瞬、狼狽した。門野歩美は彼が新入社員だった頃に密かに憧れていた先輩だ。彼より一年早く入社した彼女は、進が入社した三年後にデザイン部から商品企画部に移り、顔を合わせることもほとんどなくなった。その後キャリアアップのため退社して別の会社に移ったとかいう噂を一度だけ聞いたことがある。それが本当だとしたら、このご時世で随分と思いきった決断をしたものだ。藤野は以前から彼女に対して感じていた尊敬の念を改めて強くした。それと同時に、列の後ろにちらりと見えた女性が門野歩美であるはずがないとも思った。
 ――あの門野さんが失敗するはずがない。別人に決まっている……。
「ちょっと、お客さん。買うの、買わないの?」
 売り場の窓口から不機嫌そうな女の声がするので向き直ると、彼の前にはもう誰も並んでいなかった。透明なアクリル板の向こうに座っている小太りの中年女はどこにでもいるおばちゃんに見えるが、宝くじ専売公社のれっきとした社員だ。大の男のくせに度胸がないね、とでも言いたげだ。以前から宝くじ売り場のそばを通るたびに思っていたことだが、公社は売り場担当の社員を容姿ではなく押し出しで採用しているに違いない。
藤野は慌ててポケットから財布を取り出した。
「か、買います」
「マイナンバーカード」と、相変わらず不愛想に公社の女社員が言った。
くじの購入にマイナンバーカードの提示が必須なのには理由がある。くじ購入者の情報を宝くじ専売公社のデータベースに記録するためだ。くじ番号とそれを購入した人間のマイナンバーとが売り場の端末によってセットで記録され、そのまま公社のデータベースに保管される。マイナンバーはパスポート番号と紐づけられており、当選発表と同時に外れくじの購入者のパスポートは無効化される。国外逃亡が不可能なのはそのためだ。「消滅」の期限は当選発表から二ヵ月とされており、それを過ぎても斎場に出向かなければ警察に指名手配される。もっとも、そんなケースはほとんどない。それも当然である。新・年末ジャンボを買うような人々はその時点で生命への執着をほとんど失っているはずだからだ。
 藤野が軽く舌打ちをしてカードをトレーに載せると、中年女は白手袋をはめた手ですばやくそれをひっつかみ、スキャナーを当てた。同時に発券機から宝くじが発行される。これで彼の個人情報はくじの番号とセットで公社のデータベースに記録されたはずだ。財布から千円玉を取り出して支払いを済ませ、マイナンバーカードと宝くじを受け取る。
 列から離れた藤野は、買ったばかりのくじ券をしげしげと眺めた。彼が初めて間近で見るそれは、昔の宝くじと大して違っているわけではなかった。札入れに納まるくらいの長方形の紙に、装飾文字で「年末ジャンボ宝籤」、その下に番号が印刷されている。特徴的なのは、運命の女神フォルトゥナを描いた図柄の空白部分に透かし模様が入っていることと、見る方向によって色合いを変える玉虫色というか虹色の細い帯が上部にあることだった。透かし模様は偽造できないようにするため、虹色の帯は専用の読み取り機で発行日と番号を読み取るためのものだ。
 事前にネットで情報だけは得ていたが、こうして実物を目にすると、生命保険の証券どころか十万円札よりも精巧にできていた。偽造は限りなく不可能に近い。彼の勤めている会社は特殊印刷を専門にしているため、技術者でない彼でもその程度は分かった。
 ――人間の命は何よりも尊いというわけか……。
 藤野はそれを札入れに仕舞いながら苦笑したが、心中で漏らした嘲笑が自分に向けられているのか国の政策に向けられたものなのかは、彼自身にも分からなかった。
 「新・年末ジャンボ」を買い求める不要者の列はまた少し長くなっていた。さっき見たと思った門野歩美の姿はどこにもなかった。やはり錯覚だったのだ。

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