自分

小学生の時に自分に少しなりたい仕事ができた。
あまり情報の多い時代でなかったために、手仕事をする人の後ろ姿に憧れを覚えていた。

どこかからかで知った一級建築士。
地元の高校の上位であれば地元の大学へ推薦で建築関係の科に入れる。
そんなことを卒業文集に書いたと思う。

結構自分は出来が悪い方だと思っていた。
中学最初のテストで35位。半分にも満たない順位で軽く挫折した。

裕福な家庭ではなかった。自学で努力しどう頑張っても最高で偏差値55、普通だった。

地元の建築科のある高校へ推薦入試で通る。
内申点が良かったのかもしれない。中学では陸上部の部長、部活の成績は良くなかったが役員の委員長もしたと思う。

高校に入り、4年大学に行くために5教科を頑張ろうと思ったが、中学の復習の1年で、自分は少し腐ったかもしれない。
赤点だけ取らないで、250人中50位、純粋な夢とはかけ離れていく。

橋や道路に関わる仕事がしたいと思っていたが、その時にしていたバイトと甘い都会の誘惑に負けて、最初の面接を受けて、試験に行けば通る様なそんな会社に就職する。自分は明らかに補欠要員であった。

単純に給料で選んだ。バイト経験から自分にかかる生活費はおおよそ理解していたので、問題ない方にその頃の大卒の初任給ぐらいの会社に勤める。

10年空手をしていたので、自分の体力には自信が少しだけあった。
一人でも都会に行ってみよう。
高校から地元の中学に同級生のいない科に行ったので一人で時間を過ごすことはあまり問題視しなかった。

同期になる人と出会い、付き合い共に時間を過ごす。
9.11直後、日韓WCの時代に、水が合わずに体調を崩し、数回救急搬送もされていたし、自分自身馴染めている実感はなかった。

至って平凡な時間の中、毎日仕事に行き、帰ると彼女が待っていた。
旅行も行ってその当時できたディズニーシーに行き、時間を過ごし子供を授かった。結婚に迷いはなかった。

自分の認識で自分が納得して選んだことはこれが初めて。
たくさん選択はしてきたが、自分が幸せになる選択はこれが初めてだった。
出産の折に妻が体調を崩す。
二人で頑張っていこう。仕事は気にするな、役割分担をして家庭を作っていこう。その最中だった。

人生でこんなに苦しいことがあるのか、正直今でも心をかき乱す。
それまでの人生で最高の3年間を過ごし、当時一番幸せな経験をした後、完全にバランスを崩してしまった。

理由にしたかった、居場所が欲しかった、大事に想い合えると思っていた。
数年で破綻し、子供も実家に預けることになる。

その時に自分に対する基準があった。
みんなもその中にいる。そこから落ちないように必死だった。

結果やる気になり、怪我を抱え、病気を抱えながら、仕事をして生きていた。故にか行き当たった場所が自分の望む環境で、初めて自分が等身大で認められ自分を素直に肯定して生きていけるそんな実感がある職場だった。たまにこんなことがある。
だから生きていけるんだなと素直に思った。

地元に帰省しそのときの所長の勧めで個人で仕事を始める。

子供との2人暮らしは楽しかった。
最後の職場をステップにして人生が好転して行く感覚があった。

子供のために過ごし、隣で寝ている姿に安心し、まるで元妻といる感覚になって、自分は仕事を、送り迎えや習い事、大変なこともいっぱいあった。
正直自分の時間はなかったが、子供と過ごすことで自分は少しづつ親になった。

この間にも人の人生の節目に数度で合う。
自分の一番身近な人であったり、少し離れて暮らす人達、自分は生き死にに対し一人の時間を考えることに使っていた。

途中恋人もできた、比べてしまうけど、足し算というより引き算で人を見ていた。弱かったのは否めない。
最後に別れた恋人以降は少し恋愛に対して消極的になった。
自分を下げて合わせてしか付き合えないほど、自分に対して負い目を感じるそんな状況だった。

息抜きの中に人に会い、友だちと遊び、子供と向き合い、大事に思う。
一番充足感のある、自分のバランスと社会のバランスと人間関係の調和の取れた時間が数年あった後、多幸感はそう長くは続かず、自分はそこで自分らしさを見失うことになる。

たくさんの感情を抱えていたであろう息子の思春期に、自分らしさとはなんだったのか、正しい育てだったのか、今の選択は正しいのか。
少し長いトンネルを潜り、子供の成長とともに自分の自分の感情を少しづつ吐き出せるようになっていた。

言葉では人間反抗期もないとね、なんて言っているがこれほど愛している存在に否定されるのが辛いこととは思わなかった。
その時期も過ぎた頃に、社会が変化し、自分はまた孤独になった。

一人の時間にはなれているはずだった。
けど、対処の仕方はわかっても少し消耗していたのかもしれない。
決して一人ではなかった状況だったが、ただ証明する場所がなかった。

今でこそ社会が多大な影響を受けずに存在して適応して、それぞれが環境に対して純化して生きていてその中で、互いに支えた人間関係があったが、それを自分自身は憧れというより羨望の眼差して見ていたと思う。

結果環境に適応できなかったその時に勤めていた会社が畳むことになり、自分も図らずに今の環境に放り出されることになる。

綿密に準備はしてきたが、その時点で自分の体調はかなり崩していて、その状態ではあったがなんとか転職活動をする。

今の会社に入って、また別の環境で過ごし、少し感じることがある。

結果自分が正しいと思い、自分が揺らがなかった人生にはなるが、他方に道はあり、自分自身が生きてきた生き方以外で、どれほどにも選択肢はあり、自分の思う充足した環境はどこにでもあり自分が踏み出していなかっただけで、振り返りここまで生きてこれたことを自分を褒めてあげたいと思う。

一方向では恵まれ、自己認識では望まない時代を通り越し、子供を社会に送るそんな少し自分の事を考える時間。
結果そんなことですら自分で選んですごしている。

真っ当に生きてきた自信はある。
これから自分のことをもっと大事にして生きていこうと思っている。

人生が80年でももうそろそろ折り返し。
これからも良いことも悪いこともあるだろう。
ただ、望む望まないに限らずいろんな環境はやってくる。基準が自分にしかないから、正直他の人のことまで分からない。
それでも、これからも出会うべき人に出会い、また、自分は期待をしながら生きていく。

全てに対して肯定はできないかもしれない、自分も少し汚れたと思う。
ただ否定すべき事だけだったかというと、そんなことは全く無い。

それでいいと自分で認め生きていく。