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なぜ読書会に参加するのか?本好き同士の「対話」がもたらす価値

来週日曜日に毎月恒例のオンライン読書会が迫っている。この読書会では、毎回参加者がそれぞれ紹介する本を出しあって語り合う形式をとっているのだが、ぶっちゃけそろそろ紹介する本がなくなってきた。過去に紹介してきた本を振り返りつつ、まだ紹介できる本があったかどうかあれこれ探している。

私の記録によると、オンライン読書会がスタートしたのは2020年9月13日。もともとはオフラインかつ不定期で行っていた読書会だったが、メンバーの離散や昨今の社会情勢が相まって存続が危うくなったかと思われたところ、突如オンラインにて復活。気がつけば毎月開催するほどになっており、今や自身の生活リズムを考える上でも無視できないイベントに位置づけられている。毎月この読書会があるおかげで、読書への熱を保ち続けていられるのである。

世間は広いので、月一で読書会に参加している人などザラにいることはわかっているつもりである。それでも、わりと珍しい方なのではないかという推測もまた、間違いではないのではないか。少なくとも今私のいる生活圏においてはおよそ読書とは縁遠い人が多く、相当な希少種であるという自負がある。実際、趣味が読書と漏らしただけでインテリ扱いされた。こちらも悪い気はしないので、さらに悪ノリして「読書会」なるものに参加していると話したところ、もはや宇宙人と話しているかのような反応をされたものだ。

「読書会!? それは…誰かが壇上で本を読み上げてくれる…とか?」

それは朗読会だ。ともあれ一般的に言っても、忙しい社会人が毎月時間を作って読書会をやっているというのは、かなり貴重なことだと思うのである。皆忙しい中で、毎月開催するほどの読書会。一体そこにどんな魅力があるのだろう。

普段なかなか聞いてもらえない「本の話」ができるとか、単純に本好き同士で話せるとかいろんな魅力があるが、一番の価値は実りある「対話」だと思っている。本を媒介しつつ結局はなにを話しても良いし、どんなに稚拙な考えだろうがどれほど纏まりのない感想だろうが、参加者全員が引き受け、そこから次の考えや意見が紡ぎ出されていく。なにかひとつの結論を導こうとする「議論」でなければ、誰かを圧倒するような論を戦わせる「討論」でもない。目的は「対話」そのものだ。

今参加している読書会は、とある社会学の先生が主催していた読書会がルーツになっている。その先生が最も重視していたのが「対話」だった。かつて先生が対話の重要性を説明するのに、次の文章を紹介してくれた。

話をしていて、おもしろい人と、
なんだか、つまらない人、
いったい何がちがうのだろうか?
私が、いま、話していて、おもしろい、
と感じる人には、共通点がある。
たとえば、私が、Aという問題について、
「どう思う?」と投げかけてみると、
私が、いま話していて、おもしろいと感じる人たちからは、
すぐにポン!と直線的な答えが
返ってくるわけではない。
私の投げかけをじっと受けとめて、
言葉を発するまでに、
独特の「間」がある。
この「間(ま)」、
会話にふっと訪れる静けさが私は好きだ。
気持ちを新たにしながら、
つつしんで、いったいどんな言葉が返ってくるのかを待つ。
どきどきもする。
しばしの沈黙ののち、
最初に発せられることばは、
一見、私の投げかけと距離のあるような、
意外な言葉だ。

わかる気がする。話をしていておもしろい人(ここでは対話ができる人と言い換えても良いかもしれない)は、脊髄反射のような言葉の返し方をしない。少しばかり押し黙って、その後に口を開く。

私がいま、話しておもしろいと感じる人たちが、
言葉を発するまでに、しばし、黙る。
この沈黙のあいだ、
彼らは、ダイビングしているように思う。
声を発するのどがあって、胸に降りて、
食道も通って、胃があって、腹があって、
腹の底の、もっと人として深い部分に、
その人が、いままで生きてきた、深い深い、
「経験の湖」がある。
そこには、その人の経験の中での
たくさんの「想い」「記憶」が、
まだ、言葉を与えられないまま、混沌と浮かんでいる。
「Aについて、どう思いますか?」と私が問うと、
彼らは、沈黙の間に、
迷いなく、まっすぐ、この「経験の湖」に降りていって、
この膨大な湖の中に、いま、私から聞かれたものに
こつんと触るものがないか、探す。つかむ。
しかし、それは、まだ、言葉を与えられていない。
この深い経験の湖から、腹、胸、のど、と水をくみあげ、
最終的に言葉にしていく、
「ポンプ」のようなものがある。
これが、「考える筋肉」だと私はおもう。
(中略)
そのようにして、出てくる言葉は、
私の投げかけに応じて、たったいま、このためだけに、
つくられ、生まれ出たメッセージだ。
たきたてのごはんのような、
いわば、オーダーメイドの言葉なのだ。

「この沈黙のあいだ、彼らは、ダイビングしているように思う。」
「たきたてのごはんのような、いわば、オーダーメイドの言葉なのだ。」
見事な言い回しである。

そう、話をしていておもしろいのは、その瞬間瞬間で生成される考えであり、言葉なのだ。それは決して「即席」のものとは違う。ましてや、既成の知識、用意された考えや言葉でもない。もともとその人の深いところで沈んでいたものが、誰かの問いかけによって急速に形付けられたり、化学反応のごとく未知の何かに変化したりする。それはときとして、言葉にしている本人すら予想がつかないものであり、とてつもなく価値のある鉱石が発掘されることもある。この過程こそがおもしろさであり、真の「対話」なのだ。

もちろん、なにを話すかということは大事である。共通の趣味があって、例えばお互いに読書が好きなら、本の話をすることは何よりも楽しいこととなろう。でもそれ以上に、お互いが「対話」をしようとすること。それそのものに価値を置くならば、なにを語るか(だけ)とは比べ物にならないほどの楽しさが待っている。対話ができる環境、対話ができる人がいるということは、何よりも財産であり生きていく上での力になる。

ちょっと格好つけて書いてみたが、要するに読書会とは楽しいものであるということ。そしてこれだけ書いてみたところで、来週紹介する本は決まっていないということだ。

ところで、先ほど紹介した文章が気に入ったら、これ読んでみてください。

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