見出し画像

剣道が「本当に強いひと」に「礼法」がつく理由(「文武不岐」について)

「清く正しく」や「礼儀作法」などを浅く話すつもりではありません。
「本当に剣道が強い人にある何か」についてです。

2年前、ある高校時代の先輩と新宿のスポーツセンターで試合をすることになりました。
久々の剣道でしたが、試合のために十分に稽古(20日以上の1000本鉄棒素振り・ランニング・体幹の戻し・地稽古・栄養食の確保等)したつもりでした。

ですが、「本当に強い」ってものが対面しただけでわかりますね。
言葉で説明するのはむずかしいんです。対面してみると、わかっちゃうんです。
おちついていて構えも隙がなく、どう打ってもいなされてその後打たれる風景しかみえてこないんですね。おたがい、一歩うごくどころか審判の「はじめ」がかかる前からです。
逆に相手もこんなときはこっちの練度もわかるのでしょうね。
わたしは「既に殺られた」と感じました。

本当に全くの素人だと感じないんですよ。

その道をかじった者ではないと相手の強さを分かることすらできないんです。

これは初学者(ボクシング・学問など、あらゆる文武含めて同じだと断言できます)が「こんなもの簡単じゃん!」と舐めてやっていたら、
続けているうちに「気がつくと礼法がつくようなもの」だと思います。
「身の程を知る、弁える」というか…

これが「文武不岐(ぶんぶふき)学問と武道は別物ではなく、学問を極め何が正しいかを知ることは、武道のきびしい修練を積み人として向上することに通じる。その逆も同じ」私が好きな言葉の理由です。

歯切れの悪い文面で申し訳ありませんが、
私にとっては、
「学ぶ(修練する)ことから逃避した瞬間に、人は死んだも同じ」
は、確かに過激な言葉ですが、正鵠を射ていると感じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?