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談志最後の落語論  立川談志  ちくま文庫


 1961年、日本の観測史上でも最大級の台風の1つ、「第2室戸台風」が当時私の住んでいた鳥取県を通過した。私は小学生だった。暴風雨圏内に入ると、住んでいた家の雨戸が飛んだ。

 停電になり、ろうそくの火の下で、父親が落語「平林」の一節を話してくれた。「平林」とはこういう話だ。

 丁稚が平林という家に使いに出された。が、漢字で書かれているので読めない。そこで道行く人にこの字はどう読むのか聞く。人によって違うことをいう。「たいらばやし」と読む人、「ひらりん」と読む人、「いちはちじゅうのもくもく」と読む人、「ひとつとやっつでとっきっき」と読む人。わけがわからなくなった丁稚さん、言われたことを全部つなげて「たいらばやしか、ひらりんか、いちはちじゅうのもーくもく、ひとつとやっつでとっきっき」と大声で唱えながらそのあたりを歩き回って探す。

 この「とっきっき」がおかしくておかしくて。私はこの話を繰り返してくれるように父親にせがんだ。何度聞いても最初聞いたときと同じようにおかしかった。幾度も幾度も「とっきっき」で笑いころげ、かくして台風の夜は明けた。

 そして現在。

ユーチューブをサーフィンしていると著名人の名言集みたいなのがたくさんアップされている。本人の音声つきで。最初に目についたのが立川談志だったので、彼の名言を拝聴することにした。

談志は言っていた。「生きているっていうことは死ぬまでの暇つぶしだ。」

面白いと思ってその話を息子にした。そうすると息子は談志の本を持っているという。そして息子の頭に残っている名言はこれ。

「人間、生まれながらにできることはあくびをすることと屁をすることだけだ。それ以外のことはみんな後から取ってつけたものだから、どうでもいい」。

その本を貸せ。それが「談志最後の落語論」だった。

 落語には江戸落語と上方落語の系統がある。まあ、落語に限らず、歌舞伎でもそうだし、囲碁にもある。私は九州の出身である。九州から都会に出るといえば、大阪に行く人が多かった。しかし私は九州から東京に出てきたのだ。理由はいくつもあるが、その一つは大阪弁の「ド」が好きじゃなかったということである。「ド真ん中」より東京言葉の「まんまん中」のほうが雅を感じたのだ。

ところが、まんまん中を求めてはるばる東京にまでやってきたのに、東京でも「ド真ん中」という言い方が大手を振って歩いていた。やだね~。

江戸落語はやっぱり江戸っぽい言葉を駆使してもらいたい。「乗っける」ではなくて「ちっける」でしょう。「朝まで」とかいう教科書に出てきそうな説明語はいらん。「よっぴて」でよろしい。そしていまどき大流行の「不倫」。これは「不義密通」でなきゃ。あ、これは違うか。

ついでに書く。私は九州の中でも久留米の出身である。久留米は久留米絣が有名だ。そして「ソロバン踊り歌」がある。娘(ということにみなされている人)たちがソロバンで拍子を取りながら歌い舞う。その歌詞はこれ。

『あたしゃっさいの 久留米の日ばた織りでございますもんの
あたしがっさい 日ばたば織りよりますとっさいの 
村の若い衆が来て 遊ばないか遊ばないか 言いますもんの
遊ぶとはよかこたよかですばってん 
日ばたがいっちょん 織れまっせんもんの』

方言だけど、意味はだいたい分かるはず。問題はですな、この「遊ぶ」っていう実に不自然な歌詞ですばい。これ、お上品ぶって改悪されているのであって本当は「させる」なのだ。

『あたしがっさい 日ばたば織りよりますとっさいの 
村の若い衆が来て させんのじゃん させんのじゃん 言いますもんの
さすっとはよかこたよかですばってん 
日ばたがいっちょん 織れまっせんもんの』

そろばん踊りはこれでなきゃ。

 私、落語が大好き。中学生のころ、学校から帰ると毎日1話ずつ、落語のLP(当時はLPの時代ですよ)を聞いていた。お気に入りは柳家小さん(五代目)、三遊亭金馬(三代目)。

 金馬は禿頭の形も大好きだったな。私が持っていた金馬のLPは表が「居酒屋」で裏が「藪入り」だった。居酒屋では客が小僧さんをからかいながら飲むシーンが楽しくて。客が小僧に品書きを聞く。そうすると小僧が言うのである。「できますものは、ちいはひらたら、こぶ、あんこうのようなもん」。

 この「ちいはひらたら」がなんのことだか、どんな料理だか、さっぱり分からない。いまだにわからない。今の時代、ネットで調べれば分かるんだろうけど、あえて調べていない。金馬の「ちいはひらたら」それだけでもう十分なのだ。ああ、「ちいはひらたら」!!

 森田芳光監督の映画作品に「の・ようなもの」というのがある。二ツ目の落語家、志ん魚(しんとと)をめぐる話である。題名の「の・ようなもの」というのは、さっきの小僧さんの品書き口上の最後「のようなもん」から取られている。

 小さんでは、中でも「二人旅」が好きだった。声の質が、のんびりした百姓婆さんとかにぴったりだった。でもこの人、剣道は範士七段。本気になったら俊敏きわまりない動作ができる人だ。

 そしてこの小さんの弟子が立川談志である。あとで破門になったけど。

 「最後の落語論」は談志の年来の主張、つまり「落語とは人間の業の肯定である」というその「業」という言葉で談志が言いたいことは何なのか、を詳しく述べた本だ。

 若いころは「落語とは人間の業の肯定である」と言っていたのだが、あとになると、意味するところは同じであるものの表現は「落語とは非常識の肯定だ」とか「落語とはイリュージョンだ」とかに変わっている。

 しかし、つまるところは、江戸の「風」、「匂い」、「粋」、「了見」、「品」、「美学」、、、これらの世界を伝えたい、ということを切々と述べていたのであった。

以前、浅草の三社祭に呼んでもらったことがある。呼んでくれた人は浅草の鳶の棟梁の義理の弟で、姉が棟梁に嫁いでいたのだ。この姉というのが宝塚出身で、もう、世の中にこんなに綺麗なひとがいるのか、というレベルの人。浅草の鳶の棟梁と、ずいぶん年齢が離れた周囲をぼうっとさせるほどの宝塚の美女。いくらでも勝手にストーリーが思い浮かんでくるよね。

 棟梁の家にはいろんな人が客人として出入りしていたが、そのうちの一人にすばらしい顔の男がいた。江戸っ子ってこういう顔だよなあ、っていう顔。ただ、会津の男だったけど。

 「最後の落語論」には、モノクロだがたくさんの名人落語家の写真が載っている。どの顔を見ても「これこそが落語の世界だ」って思えて、いつまでも見入っていられる。ぜひ、見ていただきたい。

 ところで、私、談志に直接会ったことがある。それはある小説家を囲む忘年会だった。あまり上品とは言えない小説家の。ふと気づくと談志が来ていた。ああ、彼もファンなのか。談志がいるっていうことでその場の人たちの口数が減った。談志は軽く駆け付けの酒を飲むと座を見て言ったのだ。

「俺がいるとみんな気にして落ち着かないだろ」。そして、来たばかりなのにすっと帰って行った。私は談志のおもいやりと、癒されようのない孤独を思い、心中ひそかに涙しながら猥談にふけったのだった。

立川談志。実際には七代目なのにこっちのほうが語呂がいいってんで五代目談志を名乗っていた男。「落語とは立川談志である」と言った男。「談志が存在するから客が存在するのだ」と言った男。その生前に自ら付けた戒名は「立川雲黒斎家元勝手居士」。


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