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「隠岐騒動」国境離島・隠岐における明治維新(後編)吉田雅紀著

中沼了三の存在

前編では、幕末の隠岐を取り巻く社会情勢から、隠岐騒動に至る経緯、及び松江藩の追放と世界に先立つ自治政府の樹立までを見てきた。

日本海の離島である「隠岐の国」に、単に困窮する経済的要求からの一揆ではなく、尊皇のもとに住民自治を実現する政府機構まで備えた維新がなぜ実現したのか? その背景には理論的精神的支柱がなければならない。

150年前の隠岐の歴史を考えるとき、多くの島民が一様に挙げるのが、当時京都にあって高名な儒学者、中沼了三の存在である。今日、その名を知る者は極めて少数であろう。メディアに流れる幕末維新期の数々のドラマにもその名が登場することは皆無である。

しかし、激動の幕末維新期、孝明天皇・明治天皇の二代に亘り侍講を努め、鳥羽伏見の戦いにおいて、征討大将軍、仁和寺宮嘉彰親王の参謀、また明治新政府の参与となるなど、歴史の中枢にあり隠岐騒動に大きな影響を与えたことは間違いない。

これほどまでの郷土の偉人を頼り、隠岐からも何人もが了三の門下に入っているが、中でも中西毅男、井上甃介は、十津川に習った文武館設置の歎願から始まる隠岐騒動の中心人物となった。中西は、隠岐一の宮水若酢命神社境内に私塾膺懲館を開き、尊皇の大義を説き、歌道・剣道も教え、隠岐の青年に大きな影響を与えた。また井上は前編で紹介した檄文を起草した人物であり、松江藩との交渉など折々の過程でその理論的文筆が冴え渡る若き庄屋層のリーダーであった。隠岐騒動のその後を語る前に、中沼了三について以下に記さねばなるまい。

崎門学派

中沼了三は文化13年(1816年)隠岐国周吉郡中村で生まれ、天保6年(1835年)、京都の鈴木遺音に師事した。鈴木遺音は、垂加神道を創始し、大義名分を重視する朱子学の一派である崎門学を提唱した、山崎闇斎学派に属する浅見絅斎の系統である。

この学系は隠岐国造家であり隠岐国総社玉若酢命神社神主であった億岐幸生が上京して学んだ、西依成斎が継ぐ学系であり、各界の名士と親交を結ぶ中で、幸生は大化の改新の詔により造られた、唯一我が国に現存する隠岐国駅鈴を世に出して、光格天皇にご覧に入れ、寛政2年(1790年)の御所造営移転に際して、古式に則り駅鈴を使用するという活躍をした。

そのため、幸生以降に京都で学ぶ隠岐島民のほとんどは、この学系に学んでおり、了三の父・養碩も然り、そして兄・龍之介も一足早く鈴木遺音の門で学んでいた。一門で頭角を現し一流の学者として認められていた了三は、師の死後天保14年(1843年)、京都烏丸竹屋町に私塾を設け、子弟の教育を始めた。了三の学徳に惹きつけられ多くの勤王の青年が集うようになる。

了三の講義は、日常の行いを慎み忠孝や礼儀を尊び、人が踏み行う最高の道徳を重んずることにあった。了三の門に学んだ人物は薩摩が多い。西郷従道、川村純義、桐野利秋、鈴木武五郎・・・さらに土佐の中岡慎太郎、肥後の松田重助など、数多の青年に尊皇の大義を説いた。

了三の学舎には一般の人々も多数来るようになり、大変な人気で隆盛を極めた。やがて京都一の学者と言われるまでに名声が高まり、同時に天皇家に重用されていく。これには前述の億岐幸生以来、光格上皇が崎門学派に好意的であったことも影響していよう。崎門学派は儒学の主流となり、その思想的影響は、近世を通じて全国的に伸長、明治維新の思想的原動力となった。

水戸学と隠岐の精神

隠岐は離島ながら一国を成す。古代奈良朝期より、律の五刑の一つ、「遠流の地」と定められた。ここへ送られる者は都の政治犯である。その多くは、文化教養に優れ、家柄格式高い皇族貴族であった。これらの人々を受け入れることが隠岐島民に大きな教育的感化をもたらしたことは想像に難くない。

その延長に、後鳥羽・後醍醐両天皇をお守りした誇りが風土に色濃く根付いたのである。江戸期に入り北前船の沖乗り航路が開かれ、隠岐と都の時間的距離が一気に縮まる中で、学問を修めんと次々と京都に遊学する者が増えていく。

マスメディア未発達の時代、人の流れは情報の流れである。貧しい中で、北前船を通じて、隠岐には高価な書籍が数多く購入されているが、それらは庄屋・神官といった指導層で回覧され、隠岐における崎門学の素地を形成していった。山崎闇斎の儒教神道は水戸藩主徳川光圀の大日本史編纂に始まる水戸学と融合していくが、中沼了三、そしてその教導を受けた隠岐の指導層に大義名分論として受け継がれていく。

しかし、日本海の一離島になぜこのような学問への希求が生まれたのであろうか。松本健一は「隠岐学の精神、文武館のエートス」インタビューの中で辺境の意識を次のように指摘している。

その当時とすれば、「国民」という言葉はないわけです。だから福沢諭吉的に言えば、「一身独立して一国独立す」という、その一身として自立したい、と隠岐の人々は考えるわけです。自分で本を読み、あるいは自分で情報を手に入れ、自分で考え自分で国を守る一員となっていきたいという意識ですね。これが芽生え始めてきたということなんです。

隠岐島には武士がいないわけですから、政治や文化の中心から一番遠くに離れているような所だったわけです。こういう所で、自分の国は自分で守っていかなきゃならないんじゃないか、という意識を持つ人々が現れ始めた。一身独立しようという自立の動きがそういうところから出てきた。逆に言うと、そういう辺境のほうが、藩の規制であるとか幕府の規制が効かない、自分達でパトリ(共同の場所)を守らなければならない、というところもあったわけです。辺境は自立したテリトリーなんです。

寛政3年(1791年)、水戸藩士、藤田幽谷は『正名論』を刊行し、君臣の大義を説いた。尊皇攘夷と国体論の主張である。了三も講義した中国の「資治通鑑」の中の名分論、『君臣の名正しからずして上下の分厳ならざれば即ち尊卑は位置を易え、貴賎は所を失い、強は弱を凌ぎ、衆は寡を暴じて亡びることになりけん。故に孔子曰く、必ずや名を正さんか。名正しからざれば即ち言順ならず、言順ならざれば即ち事ならず』を原点とする。

水戸学は了三によって隠岐の根本精神に影響を与え、また尊皇攘夷から隠岐維新を生み出す原動力となった。国の理想を、水戸学が連綿として研究してきた古代国家に求めたのである。了三の理想は天皇親政という国体、天皇が中心に坐す国づくりであった。

日本は天皇の「しらす国」である。天皇の「うしはく国」ではない。

即ち天皇と国民の関係は、支配被支配の関係ではない。天皇を中心とした契約関係のない家族のようなものである。お互いが思いやる和の国である。純粋な理想論であるが、西洋の価値観とは相容れない世界であることは、了三の中では初めから明白であったに違いない。

十津川文武館

弘化4年(1847年)に孝明天皇の命で、公家の師弟教育の場として開講された学習院で、了三は6人の講師の内の1人に任命されるのと並行して、孝明天皇の侍講となり、また彰仁親王(嘉彰親王)の侍読となった。

ここで学習院に触れておく。
当時の学習院は単なる高等教育機関ではない。当時孝明天皇の影響もあり尊皇攘夷論が優勢な京都において、三条実美と長州藩を中心に勤王志士の集合所と化していた。長州藩には学習院御用掛や学習院出仕という役が設けられており、諸藩有志の建白も学習院宛に提出され、協議・建言の上、天皇に届けられるという、ある種の政治堂として機能していた。

この実態は文久3年(1863年)8月18日の七卿落ちにより下火となるも了三の講義は続けられ、公卿の出入り、そして勤王の同志との接触が政治色を帯びるは必然であった。了三は、元治元年(1864年)には孝明天皇の勅命を受けて、大和十津川に文武館を設立し、講義を行っている。

今日に至るまで十津川は、「中沼先生は我が村の恩人である」と語り継いでいる。それにはこういう訳がある。隠岐と同じく、十津川は古くは神武東征の折から天朝に連なる誇りが漲る風土である。国難に際して天皇の盾になる赤心が彼らを突き動かしていた。

京都で了三の人格と見識を慕う中でその指導を受け、「上願書」を学習院に提出する。このことは了三から中川宮(後の久邇宮朝彦親王)を経て、天皇に取り次がれていく。天皇の親兵たらんとの願いは届き、京都寺町三条に十津川屯所を設置し御所の守衛についた。文久3年8月17日のことである。

翌日の政変により、自分たちを取り立ててくれた三条実美以下攘夷派の公卿たちが都落ちしていく。一方十津川の庇護者である中川宮が、公武合体派の黒幕であるという複雑怪奇。さらに同日には、天誅組が大和五条の幕府代官所を襲撃。尊攘派による倒幕の決起であり、十津川はこれに呼応するも、京の政変により天誅組は朝敵とされ、十津川屯所からは離脱命令が届き脱落者が相次ぎ、天誅組は総崩れとなる。

こういった政治の大混乱の中で如何に処すべきか、十津川の純情はその術を知らない。了三が中川宮に言上する。「このたび十津川郷士が朝敵の汚名を着せられたことは慚愧にたえません。禁裏への忠誠の篤い故の行動であります。汚名をそそぐ方途を見出してやるべきです。」と。その了三の思いが中川宮から天皇の耳に入る事となり、数日して天皇から次の言葉が発せられた。

古来大和の国十津川郷、その御民はよく正義に進み、勇気に富み、皇室のためには命を惜しまない。了三、汝往きてここに文武の道を教え、他日の用に足るべく導くがよい。学校は文武館とせよ。

「十津川郷士を朝廷の親兵に育てよ」との朝命が了三に降り、身を賭してこの任に当たる。翌元治元年2月16日、文武館設立が正式に決まった。開講が近づくと了三は家族とともに十津川に移り住んだ。5月4日、開講初日に了三は、『大学』の三綱領を講義している。

十津川の感激はいかほどであったろう。郷士たちは重要なことは全て了三の指導を受け決定したという。この文武館が、現在の十津川高校、日本最古の歴史を誇る高等学校である。

この一連の動きを門下生として了三の側で目の当たりにしていたのが、後に隠岐における文武館設立嘆願の中心人物となる中西毅男である。毅男は既にこの時、「十津川は陸の勤皇隊、隠岐は海の勤皇隊」ならんとの信念を固めていたものと思うのである。

錦の御旗

さらに了三は、朝廷が定めた総裁・議定・参与の官制において参与に任じられ、その後の鳥羽伏見の戦いでは、征討大将軍の参謀として活躍する。

中沼了三の最大の功績は何であるかと問われれば、私は真っ先に「錦の御旗」と答える。明治新政府の参与にして仁和寺宮の参謀。王政復古の大号令を発し天皇親政を目指す重要な軍議、歴史が動く中枢に中沼了三の姿がある!

慶応4年1月3日、仁和寺宮嘉彰親王は明治天皇から軍事総督の大命を受け、直ちに御里坊にて軍議を開く。親王の前に7人が参集、その1人が中沼了三である。あとの6人とは、越前福井藩主松平春嶽、土佐藩主山内容堂、伊予宇和島藩主伊達宗城、土佐藩士後藤象二郎、薩摩藩士高崎正風、仁和寺宮に仕える公家矢守対馬守平好。

この顔ぶれで、平民は了三ひとりであり、いかに朝廷の信認が厚いものであったかが推し量られる。翌1月4日、了三と大久保利通が勧めたとおり、仁和寺宮に征討大将軍の命令が下り、明治天皇自ら征討の節刀を授けられ、大将軍旗である錦の御旗が翻った。ここをもって戦は薩長対徳川の私闘ではなく、官軍対賊軍の戦い、朝敵征討の意味を持つこととなった。これを成し遂げる一翼を担ったことこそ、了三第一の功績であろう。

隠岐は古来天朝御領、ご配流となった後鳥羽天皇・後醍醐天皇をお守りした国である。歴史上、錦旗が初めて登場するのは、800年のその昔、後鳥羽上皇の承久の乱(1221年)。錦の御旗とは朝廷の軍即ち官軍の旗印で、赤地の布に日月の形に金銀を用いて刺繍または描いて、朝敵討伐のしるしとして天皇から官軍の総指揮者に下賜される。

後鳥羽上皇が、近江守護佐々木広綱に与えたのが始まりとされる。ちなみに菊花紋の正式採用も後鳥羽上皇に始まるとされる。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として歴史にその名を残すことになるが、北条・鎌倉への非難は日本中に潜降した。

雌伏110年、天皇親政の理想を掲げた後醍醐天皇の元弘の変(1332年)。ここでも錦旗が翻る。歴史において、隠岐と錦旗は見えない糸で結ばれているのである。隠岐人たる了三にもこのDNAが流れていた。

ちなみに了三の出身地である隠岐国周吉郡中村に、825年前から伝わる隠岐三大祭りの一つである武良祭風流において、日の神と月の神の合一を計るシンボルとして2ヶ所の神社よりそれぞれ錦旗が出御する。そこには錦糸で太陽と八咫烏、月と白兎が染められている。

これも不思議な縁である。錦旗が日本国民にとってどういう意味を持つものであるか、参謀の中で最も理解していたのは一介の平民・中沼了三その人であった、と私は思う。

仁和寺宮はその夜、錦の御旗を掲げる薩摩藩兵に先導され本営となった東寺に入るのであるが、親王が軍装で出陣するのは元弘の変における後醍醐天皇の第一皇子護良親王以来のことであるという。余談であるが、この東寺の現在の長者・砂原秀遍師は隠岐の人。ここにも隠岐と錦旗の見えざる絆を感じずにはいられない。

そして良三も参加しての軍議、これが征討第一陣の軍議である。薩長軍は5000、幕府軍は15000、3倍の兵力差はあるが、1月5日、鳥羽伏見の戦線に大将軍の錦の御旗が翻ると、幕府軍は朝敵となったことから戦意喪失、了三は大将軍旗とともに淀城に入場。仁和寺宮は戦中にあっても学問を欲し、淀城において参謀である了三に命じた。

了三は大将軍宮の御前で、『靖献遺言』の中から諸葛亮孔明の「前出師表」を講義している。宮は深く感動され、これによって官軍の士気は大いに上がったという。『靖献遺言』は崎門学派の浅見絅斎の編著で、中国の忠臣八人の遺文・略伝を記し、死を賭して道義に生きた事蹟を顕彰した書である。

幕末の尊皇の志士に強い影響を与え、ことに吉田松陰は終生手放すことがなかったと伝わる。大義名分を説き、尊皇と愛国の至誠とをもってその実践を求める了三の学統にとっても座右の書であった。

明治の侍講


その後明治元年(1868年)に官学所御用掛となり、翌年には明治天皇の侍講を拝命するとともに、昌平学校一等教授に就任し、平民の最高位である正六位に叙せられ、明治天皇には2日に1回の割合で、進講・侍読に仕えたとある。

しかし明治3年12月、西洋文化による日本の建設という時事問題について、侍講職の責任から三条実美、徳大寺実則ら元勲と思想面で大激論となり、辞表を出し野に下った。何度かの出仕依頼も断り、京都で学舎を開き有為な人材の育成に当たっていたが、明治15年、滋賀県令籠手田安定(後の島根県初代県知事)の協力もあって、大津に私塾「湖南学舎」を開くや、全国から了三の学徳を慕って集まる者数百人に及び、盛大を極めた。

了三の足跡は、幕末維新期の日本の歴史そのものと重なり紙幅がいくらあっても足りないが、次に隠岐騒動の顛末に話を戻さねばならない。

島前と島後

正義党同志は松江藩郡代を追放し、自治政府を立ち上げたのであるが、腐心したのは隠岐の国論を統一することである。追放を決定した島後の庄屋大会、それに続く横地官三郎邸での同志派勢力結集の席で、島後の長老中西淡斎、井上春水が求められ意見を出す。

この動きを暴徒と化してはならぬ。そのためには、ひとつは島民あげての意志であること、郡代追放後天朝の命の下るまで秩序ある政をとり行うこと、なおこの行動には島前も共に立ち隠岐の国一体となって取りすすめることが肝要である。

この長老の見識に感銘を受けぬ者はいない。忌部正弘ら指導者は、「取り急がねばならぬことは島前への措置」と中村の庄屋、赤沼嘉平を使者に立てるが同意は得られなかった。
 
同じ隠岐でも、島後と島前の状況は全く違った。

島後が西郷を中心に港湾機能を持って栄えている地域と、農山漁村を中心にした貧しい地域の貧富の差が大きいのに対して、島前は海産業を中心にわりあい富が平均化していた。さらに松江藩の分断統治。

島後に対しては、隠岐郡代山郡宇右衛門による過酷な圧政、島前に対しては島前別府代官所を預かる足羽丈左衛門による善政が敷かれた。

島前の政治機構である、庄屋・年寄・組頭へ折に触れ酒食を振る舞い、また島民への米の配給、藩家老からの土産と称する金子など人心の安定が図られ、島後と違い島前にはそもそも松江藩と対立する理由がなかった。

二者が合同して一大勢力となることを防ぐために、一方には優しく、一方には厳しくする幕府の政策が適用されていたと言えよう。

そのため、山陰道鎮撫使の公翰受取に上松し、隠岐国が天朝御料となったことを知る島前福井村庄屋・村上喜平太でさえ、足羽代官に対し何の行動も取らず、事態の推移を見守っていた。郡代追放後も直ちに2名の庄屋を使者に発し、郡代・山郡の屈服状を示し同調を求めたが島前はこれを拒否。次いで横地官三郎が島前に渡り、協力せねば島後の兵力で足羽代官を追放するとまで談判に及ぶ。

島前側は島後との戦争を避けるため、急遽島前一円十三人の庄屋を招集しての協議となる。ここで再び長老・中西淡斎が「隠岐国の長い歴史を共にしてきた者同士が戦火を交えてはならない」と、自ら島前に乗り込む決意を述べ、これに前穏地郡大庄屋・藤田鈴山も同調し、そしてわれも行くと立ち上がったのが自治政府会議所の最高幹部、億岐有尚

彼は、隠岐総社たる玉若酢命神社の宮司で、隠岐国造家という隠岐随一の名家、島民が「国造さま」と尊称する家柄である。これに加え、目貫村庄屋・渡辺亦十郎、賀茂村庄屋・井上甃介、永海文之丞、永海城之助を加えた7人が使者に立った。島後の最高幹部を迎えた島前の庄屋衆は、隠岐という同国の義理と松江藩に対する恩義の狭間で苦悶したが、島後の説得を拒みきれず、歩調を合わせ京都の鎮撫使役所への郷帳提出に同意するも、代官追放はでき難いことであった。しかして島前側は約束を破り、4月1日に庄屋13人は密かに松江に出立する。むろん代官・足羽の計略である。

松江藩の反攻と自治政府の崩壊

自治政府は、当然のことながら松江藩の反撃があるものと覚悟していた。そこで外交に乗り出す。4月3日、中西毅男を含む3人が京に向かった。中沼了三を訪ね、先に上京していた16人の同士とともに朝廷工作を練った。鎮撫使役所に対して郷帳の提出が遅れていることへの詫びと、松江藩の隠岐郡代を追放した経過の報告、並びに松江藩の報復に対する取締りの依頼のためである。

また井上甃介、横地官三郎ら4人が長州藩浜田駐屯に出向き、隠岐郡代追放の経過を説明し、事態への朝廷の理解を得るための取りなしと、松江藩が隠岐奪還を企てた時の軍事支援を嘆願書を添えて言上した。

一方松江藩は、太政官に向けて工作に走る。結果4月13日、太政官から松江藩に対し、「かねて旧幕より預け置きし隠岐国の儀、当分その方の藩へ取締りの向きを仰せ付ける」と『隠岐取締令』が下された。新政府は未だ不安定な時期であり、関東東北の旧幕勢力の討伐という難題を抱え、莫大な戦費の調達にも迫られていた。

松江藩の陳情を渡りに船と18万両という戦費拠出を持ちかける。岩倉具視の知恵であり、決定を下したのは内国事務総局総督・徳大寺実則であった。新政府には岩倉や徳大寺を中心とした内局派と、薩長を中心とした武闘派があった。松江藩はこの内局派に猛烈な陳情を展開し、隠岐島後の自治政府は鎮撫使を支えた、長州・因幡両藩に焦点をあてて嘆願運動を展開したのである。

内局派は新政権の安定に力点を置いているのに対し、武闘派はなお幕藩体制の壊滅に力点を置き、松江藩を関東東北の旧幕勢力との関わりにおいて見ているところに政策の隔たりがある。隠岐を巡る情勢は複雑な様相を呈するのである。

ともあれ松江藩は朝廷から「隠岐支配」の達書を得て、藩論は武力討伐一色となった。閏4月13日、松江藩は参政乙部勘解由を総指揮に命じ、まず藩兵70名をもって島前別府に着陣した。島後にあっては新たな郡代・志立範蔵が十数人の藩兵を引き連れ、西郷の民家に着陣した。

「太政官から正式に松江藩に隠岐支配が発せられている、早々に陣屋を明け渡せ」「我らに達しは届いていない。京都へ発した使者の返答があるまではここを動かぬ」といった問答が繰り広げられる。この間にも松江藩の兵力は増強されていく。閏4月27日、斎藤指揮下の20名、5月3日には岡田指揮下の本隊が西郷に渡る。

同じ日後続部隊として、大砲四門を装備した200名の藩士が島前に渡る。この主力部隊を率いて5月9日、乙部勘解由が西郷に着陣し陣屋に対して威圧をかけた。この時藩兵はゆうに300名を超えていた。

果たして京都への朝廷工作の結果は、『松江藩への隠岐取締令は徳大寺実則の独断で発せられたが、長州と因州の巻き返しにより、松江藩の隠岐支配にこの二藩が御目付役として介在することで妥協が図られた。かかる騒動を起こす松江藩に長く隠岐を預けることは好ましくなく、いずれ近く行う国替えの時には松江藩から隠岐を切り離す。隠岐国はこの年11月6日、鳥取藩に管轄替えになる』ということであった。

松江藩の隠岐への出兵は長因両藩の許可なくしては出せないとの確認をもって、横地官三郎ら4人は閏4月19日の夜、隠岐に向かって京都を立った。しかしこの時期悪天候が続き、凡そ20間、日本海の荒波が彼らを翻弄する。隠岐到着は5月10日、歴史の皮肉か、まさに松江藩が自治政府が立てこもる陣屋に攻撃を仕掛けたその日であった。

結局自治政府は陣屋を明け渡さず、夕刻突如松江藩から一発の銃声が鳴り響き、陣屋の正門を守っていた同志が一人倒れた。我が先祖、森(吉田)勝右衛門である。これを合図に松江藩からの銃弾や大砲の乱射によって、次々と同志は倒れ、ついに義勇局隊長の藤田冬之助が倒れたことによって、同志中は混乱状態となり、陣屋を放棄して四散した。死者14人、負傷者8人、入牢捕縛19人。このあと松江藩の執拗な残党刈りに島後は蹂躙されていく。

実はこの時同志達は1発の銃弾も撃っていない。

これは松江藩の包囲を受ける直前に、総指揮忌部正弘や当日京都から帰国したばかりの官三郎達によって、実戦になれば干戈を交えず、尼寺山へ退避し対策を考えようと布令し、既に隊員から戎器を回収していたことによる。

このことが後日、朝廷の裁きの上で自治政府側に有利に働く。ともあれ、慶応4年3月19日の郡代追放から、閏4月をはさんで5月10日まで、わずか80日間の島民による自治政府は崩壊した。

松江藩の敗北

松江藩の攻撃にさらされ自治政府は崩壊したが、同志たちはただ四散したのではない。正義党同志等は、指導者を中心に100名以上が直ちに島を出て、各地に救援を求めている。主な行き先は勤皇藩であり親隠岐藩であった鳥取藩、長州藩の駐屯する浜田、太政官があり中沼了三のいる京都であった。

隠岐の様子を窺っていた鳥取藩は、同志達とも交流のある藩士影山龍蔵に島内の視察を早くも命じていた。5月13日、影山が風待ちのため美保関に留まっていることが伝わった隠岐では、隠岐最速の高速船、八挺櫓の押切飛船を仕立て、影山を迎えに行く。影山は途中で因幡に向かう官三郎、甃介らと遭遇し、陣屋攻防とその前後の松江藩の対応を聞き、その日のうちに隠岐へ到着、直ちに新郡代志立範蔵との交渉に入る。

鳥取藩の介入を恐れる松江藩は14日、増援隊50名を急遽派遣。藩兵は松江藩の所有する軍艦二番八雲丸に乗り、西郷港へ入港する際には、空砲を発して島民を威嚇し、武力をもって島民を統べようとした。

一方、浜田に関しては、5月3日に松江藩の増援隊派遣の情報を掴んだ正義党は、自治政府の危機を感じ取り、使者を送って隠岐の様子を伝えていた。そのため島から救援を求めてきた際にも、すぐさま萩へ使者を出して対策を練り、藩主毛利敬親は、折しも東北鎮圧のため出港準備を進めていた藩の軍艦丁卯丸の船長、山田顕義を呼び、東北鎮圧の途上、丁卯丸を隠岐に回航し紛争の処理を命じた。

長州と共に行動していた薩摩藩の軍艦乾行丸も同行し、 14日の夕刻、二番八雲丸の両舷に投錨し、「我ら征討軍の司令官は後刻入港する筑前黒田藩大鳳丸に搭乗している。この度の松江藩の隠岐支配は極めて横暴なり。屈服しなければ我ら軍艦三隻で戦うことも辞さない」と松江藩を威嚇した。

これには松江藩も屈服せざるを得ず、鳥取藩・薩摩藩・長州藩と松江藩の間で交渉が行われ、15日に約定書を取り交わしたのである。まさに三日天下、松江藩はこの取り決めにより翌16日から撤退を始めた。松江松平藩十八万石を相手に一歩も退かず、陣屋を奪回されてからわずか一週間で再び松江藩を追い出す外交力には、ただ驚嘆するのみである。

事の次第を聞いた松江藩は仰天し、直ちに、前郡代、山郡右衛門を切腹、鈴村祐平は家禄取り上げ永禁固、今西惣兵衛に隠居、関係者一同に謹慎と刑罰を執行し、ひたすら恭順の姿勢を見せた。

また一方、京都へ救援を求めた同志らは、5月20日に京都に到着。直ちに太政官に5月10日の事件を報告した。太政官ではこれを受けて、「御一新の初政にあたっては、民を畏服させるにあくまで皇化をもって普及させるべきところ、軍を連ね干戈をもって民を制するとは理の上であるべからざること」と、隠岐への介入を決定。

翌21日に早速、刑法官判事で鳥取藩士の土肥謙蔵を監察使として派遣する。監察使の到着は28日であった。事件糾明の焦点は、どちらが先に発砲したかに絞られた。松江藩の志立郡代は「暴徒が先に発砲し、やむを得ずこれを鎮圧するために当方も応戦した」と言い、同志派は「松江藩が先に発砲し、しかる後我らが応戦した」と真っ向から対立した。

結局監察使は同志派の言い分を採用し、なおかつ松江藩に屈服状を差し出させた。ここにおいて太政官から達しのあった松江藩への、「隠岐支配」は実質的に解消され、隠岐の同志は無罪と決まった。

監察使・土肥は、島前島後の和解を成立させ、同志派を中心とした第二次自治政府の樹立を見て、6月14日隠岐を離れた。かくして中央政府直轄の地方行政府として第二次自治政府が成立する。その機構は第一次のそれに準ずるものであった。

後日談であるが、正義党同志は、これだけの騒動を引き起こした自分たちだけが無罪放免とは納得できず、自分たちにも罰を与えてくれるよう嘆願し、認められている。この心情は、島の血を引く私にはよく理解できる。御先祖様への詫びであり、亡くなった同志たちへの追悼・慰霊でもあった。と同時に、全てを見ている神様への、島人の矜持を示したものである。

このあとも新政府の松江藩に対する糾弾はさらに続く。新政府は家老・平賀縫殿、参政・乙部勘解由という松江藩の文武の要となる人物を隠岐騒動の罪人として拘束し、実質的な人質として松江藩の動きを封じ込めにかかる。

慶応4年6月15日、奥羽越列藩同盟は孝明天皇の義弟である、北白川宮能久親王を東武皇帝として即位させ徹底抗戦の構えを見せる。当時のニューヨークタイムズが、内戦によって日本には2人のミカドが存在している」と、世界に打電するほどの情勢、いまだ戊辰戦争は終結を見せず、ここにおいて、徳川親藩松江藩の弱体化に、隠岐騒動は利用されていったのである。

廃仏毀釈

慶応4年3月28日、新政府は神仏分離令を布告し、全国的に廃仏の機運が醸成されていった。最初に比叡山で始まり、信州、土佐と拡大していく。

隠岐においては隠岐騒動に関連して、廃仏の動きは過激の一途をたどった。当時寺院においては、宗門改めの仕事を任されていたため、松江藩の保護を受けており、同志派の動静は寺院を通じて逐一松江藩に届けられ、松江藩の反攻時には藩側の先導として、同志の追跡に手を貸していた。これへの遺恨が同志派には鬱積していた。

この年9月、慶応は明治に改元されるが、旧習一掃の機会を廃仏に求める主張は、新政府が進める思想統一、即ち神道皇国論と相乗してさらに拡がりを見せていく。こうした中で、僧侶は仏像仏具などを持ち出して逃走する者も現れ、同志派を刺激し廃仏毀釈の動きはさらに過激なものとなっていった。

隠岐の廃仏毀釈には特殊事情がある。隠岐騒動の指導者に神官が多く含まれていたことに加え、騒動を通じて、同志たちや各村には借金ができたことである。この対策として、寺領の財産を没収してこれに当てようとする考えがあった。また明治2年2月、隠岐県が設置され、最初に赴任してきた知県事、真木直人は久留米水天宮の神官の生まれであり、着任以来、神道を支持する改革を推進していく。

島民からは僧侶の堕落・愚行を糾弾する歎願書が司法所に度々出されており、知県事は同志達を扇動し仏教弾圧に力を入れた。隠岐全村に渡り99の寺院が破壊され、174町歩の寺領が没収された。廃仏は寺院の破壊に留まらず、神社では神社改めが行われて仏像・仏具が破却され、仏教信者の家々の仏像が無理やり破壊されることも起こった。

隠岐での廃仏は徹底されており、道端の石仏なども悉く破壊され、現在でも島後には第二次大戦後復興した寺が僅かにある程度、島民の3分の2は神道であるという。

また廃仏によって没収したものの多くは官有となり、島民への利益は微々たるものであった。そして、この廃仏毀釈の終焉とともに、隠岐騒動の熱気も終わりを迎え、辺境の島隠岐は、中央政府に従順な一地方として、静かなもとの暮らしに戻るのであった。

おわりに「歴史を学ぶ者は未来を知る」

前編で紹介した隠岐の自治政府の機構について、発案者は全く不明であると書いたが、私はこの起草に中沼了三の門下で学んだ中西毅男、井上甃介の両名が深く関わっているものと考えている。

了三のもとで国家の理想、政治の理想を学び、多くの学者や勤王の志士と議論を深める中で、国家を故郷・隠岐の国に見立てて島民の幸福を追求することこそ、留学の志であったはずである。

帰島後の文武館設置の歎願にはじまる運動の中で、慶応4年2月、中央情勢を探るために正義党同志11名が脱島するが、その中に両名がいた。風向きが悪く長州藩が支配する浜田に留まり長州藩参政・徳富恒輔と接触し、朝廷が王政復古の国書を各国に示し外国との和親を布告したとの最新の情報を手に帰島している。

長州藩士との親交のなかで明治新政府の考える機構として、外国の制度を模して太政官のもとに立法、行政、司法の三権を置き、立法は議政官、行政は神祇、会計、軍務、外務官など、司法は刑法官が置かれるといった考えも聞いているはずである。得た知識と情報を総動員して、自治政府の機構を構想できる人物とすれば、この二名をおいて他にはいないと私は見る。

さて、隠岐騒動の今日的意義は何か。

振り返れば維新という混乱期、中央の施政は揺らぎ、かつ甚だしく変化した。その煽りを受けたのが地方・辺境にある松江藩であり、隠岐であった。国が揺らぐとき、国に頼って地方の自立は可能だろうか。昔も今も、理想と現実の狭間で悩みは尽きない。

現在隠岐と国の間には、韓国に不法占拠されている竹島の問題が横たわっている。先祖伝来の国民の財産が蹂躙され略奪されようとも、国は動こうとしない。政治的理由という。

国益とはときに冷酷であり無情なものであるが、それでも我々は生きねばならない。

歴史を学ぶ者は未来を知るという。

明治維新150年のこの年に、私は先人の想いを反芻している。私たちはたまたまこの時ここに生まれてきたのではない。全て歴史はつながっているのだ。

今再び日本海は緊迫の度を増している。隠され続けてきた隠岐の国を開く時はそこまで来ている、と春の闇にそう思う。(了)

季刊 日本主義 No.41 2018年春号 明治維新150年特別企画
明治が生んだ女たち 掲載

【参考文献】
中沼郁・斎藤公子『もう一つの明治維新』  
寺井敏夫『隠岐の嵐』
中沼了三先生顕彰会編『中沼了三伝』    
大本竜也『隠岐騒動とその背景』
中沼郁『隠岐学と水戸学の系譜を探る』
藤田茂正『隠岐騒動の顛末』
藤田新『中沼了三を通してみた維新前後の教育と政治』
藤田新『明治七年の建白書運動と隠岐』 
五木寛之『歴史の闇に消えた隠岐騒動』
その他参考文献多数

吉田雅紀(よしだ まさのり)
昭和33年、島根県生まれ。学習院大学卒業。島根県議会議員(隠岐選挙区)。元参議院議員秘書。昭和62年帰省後、流通・観光・製造・採石・産廃・福祉など多彩な仕事に携わりながら、平成27年4月より現職。


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