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「隠岐騒動」国境離島・隠岐における明治維新(前編)吉田雅紀著

尊皇の島「隠岐の国」


山陰沖40~70kmの日本海に浮かぶ、中ノ島・西ノ島・知夫里島の島前3島と、島後と呼ばれる島のあわせて4つの有人島、さらに大小180の島々からなる隠岐諸島。太古の石器時代から良質の黒耀石を算出する宝の島として、環日本海交流の十字路でもあった歴史に古い隠岐の島。我々はここを「隠岐の国」と呼んでいる。

古事記の国生み神話では、淡路・四国に次いで3番目に生まれたとあり、聖武天皇の神亀元年(724年)には遠流の島と定められ、皇族や貴族・役人などの政治犯を都の文化とともに受け入れてきた。その文化が連綿と今日に受け継がれている。このことは、海に恵まれ山に恵まれ水に恵まれ、隠岐がいかに豊かであったかの証左であろう。

承久3年(1221年)北条義時追討の院宣を発するも、倒幕の願い叶わず配流となり、この地で生涯を終えた「後鳥羽上皇の承久の乱」。そして1世紀を経た元弘2年(1332年)、後醍醐天皇が流される。1年間ここに滞在され、脱出後倒幕を成し遂げ「建武の新政」を敷く。

天皇の坐すところが日本の都であるなら、まさに隠岐の国がこの1年間、日本の都であったとも言えよう。そのような中央政治との関わりを持ち続けた土地柄である。必然として島民には尊皇の心が芽生え、幕末期における激烈な尊皇攘夷運動としての隠岐島後における「隠岐騒動」の遠因となった。唐突に「隠岐騒動」といっても多くの方には耳慣れない事件であろう。

「騒動」という言葉からは、単に日本の一僻地で起こった百姓一揆を連想するかもしれない。しかし、維新期にここで起こった出来事は、混乱を極めた当時の日本の縮図であると同時に、パリ・コミューンに遡ること3年、島民による世界初の自治政府の樹立という、当時の国民が追求した最高の政治形態の顕現であり、近年その再評価が進められていることをお伝えしたい。

幕末の隠岐をとりまく社会情勢異国船の出没は、いきなりペリーの浦賀来航に始まるのではない。西欧列国のアジアにおける植民地主義による覇権争いの中で、確実に国境は揺らぎ始めていた。隠岐沿岸に清国の異国船が来航したのは1717 年の享保年間、黒船来航よりも136年も前のことである。次いで1720 年の来航を受けて、松江藩は隠岐代官所に番屋役を置く。

さらに1750年には、唐船が島前別府に漂着したことにより遠見番を設置、11797年には島役を設け台場を作り砲術方を配置し、130人の藩士を渡海させている。1825年幕府は外国船打払令を出すが、唐船来航は頻繁となり、1849年には5回延べ8隻に及ぶ。島後の伊後・長尾田にも遠見番が配置され、島民には国境離島の宿命が現実の危機となって現れていた。

さて、隠岐は古来日本海交通の要所として栄え、幕末期には島後の港に年間2000隻もの北前船が入港したとある。各地の人や文物そして情報が行き交う中で、独特の自由闊達な気風が漂っていった。隠岐は幕府の天領であり、預かりという形で親藩の松江松平藩が統治をするという二重構造であったが、代官所への役人即ち武士の常駐は10名にも満たず、島民の日常生活は各村の庄屋の差配にあった。

日常的な諸問題の解決や各種手続きは全て庄屋が執り行い、そのため村人は、庄屋に対して感謝し奉公するという地域社会が形成されていった。この庄屋層は学問的素養や向学心が高く、また子弟を京都に遊学させる者も多く、しかも豊かさの裏返しであろうか、学問の主流は実学ではなく、漢学や儒学であり、学徒として学んで帰省する者が増えるにつれ、後鳥羽院・後醍醐天皇以来の朝廷の民という。尊皇の意識が神官層とともに島民に浸透していった。

天領とは文字通りの天朝御領であり、幕藩への服従は表面的であって、常に抵抗意識と誇りを抱いていたことは想像に難くない。

また隠岐では異国船以外にも社会不安が増していた。凶作の頻発と米価・物価の高騰である。山海に恵まれ、水に恵まれた島でも、その小ささ故にひとたび天候不順や大きな災害が起これば、困窮することは容易に想像できる。加えて松江藩の圧政が島民を苦しめていた。

天領として幕府の支配化に置かれた後、松江藩預かり、石見大森代官支配を繰り返す中で年貢は銀納に代わり、米は拝借米として貸し下げられるようになる。つまり自然的原因以外に、米価の決定方法の不適による人為的原因によっても農村は苦しめられたのである。記録では寛政 10 年(1798年)米1升41文が慶応元年(1865年)には、339文と8倍以上の高騰となっている。

しかも米価は、本土で最も高い田木村の価格と消費地である隠岐西郷目貫村の価格の平均という不利な条件から、さらに大阪・堂島相場を睨んだ米問屋の町売り相場となったため高騰を極めていく。百姓にとって年貢が米納な
ら値段は関係ないが、「銀納」である。米納した米を食糧難救済の名目で村ごとに一括借り受け島民に又貸しし、1年後に時の相場で返済するというのが拝借米制度であり、何割も高い本土の米価で返済させられるのでは困窮は必然である。

自作の米をいったん差し出して、改めて高い相場で購入する代銀納という松江藩の制度と、これに結託して私腹を肥やす悪徳商人に対し、慶応元年には大きな打ちこわしもあった。これを収めたのも庄屋衆や神官のリーダーであり、彼らへの島民の信頼がいかに篤いものであったかを物語る。

本来庄屋が取り決めるべき米相場を、蔵方に勤める一部の町方庄屋と米問屋、賄賂によって買収されている代官所役人が決めていることへの鉄槌であり、襲撃するも一切略奪はしないという、独特の正義感に裏打ちされていた。

文武館設置の嘆願


そのような中で、近海での異国船の出没はますます頻繁となり、嘉永2年(1849年)には、島前西ノ島に異国船が入港し6人が上陸する事態が発生する。次いで島後北部へ2艦、さらに島後大久へ大型艦と続く。事なきを得たが、北前船からもたらされた、対馬にロシア軍艦が投錨・襲撃し、死者まで出たとの情報は否応なく島民を不安に陥れた(1861年、ポサドニック号事件)。

文久3年(1863年)、松江藩は外敵に備えるために、藩兵百名余を渡海させ、隠岐島後において17歳から50歳までの勇壮なる者480名を選び、農兵隊を組織したが、働き手を取られる不満に加え費用は全て島持ちという圧政である。

加えて元治元年(1864年)隠岐の中心、島後西郷港に突如黒船が入港する事件が発生する。恐る恐る巡検に乗り込んだ代官が下船の際、帯刀を船内に置き忘れ、町人に取り戻しを頼むという醜態を晒した。このことは島民に松江藩へ頼っていたのでは隠岐は危ういとの確信を抱かせた。

事件に危機感を持った松江藩は、慶応2年(1866年)、上層農民から3030人を選抜し、藩から2人扶持を支給して鉄砲操縦の訓練をさせた。ところが、前述のごとくの民衆の暴動を恐れた藩は、慶応3年5月、一転して農民の武芸を差し止め、農業専念を申し渡し、訓練のための藩兵も漸次引き上げさせるという場当たり的な海防策を繰り返し、有事に対する住民の不安はさらに高まっていった。

しかも派遣された藩兵の中には、本務を忘れ遊蕩に耽る者の姿も島民の目に留まる。自分たちの隠岐を守ろうと考える高い志の者や尊皇思想を持つ者の松江藩への不満が高まっていく。こういった背景の中で、松江藩を頼りにせず、外敵に対して自らの手で隠岐を守るため、文を修め、武を練ろうとする者たちが同志を組み、子弟教育を行うために大和十津川に倣った文武館を隠岐にも設置しようとする動きが起こる。

慶応3年(1867年)5月、島後49村の内30村、庄屋20名、年寄3名、神官12名を含む同志73名が連署し、嘆願書を郡代に提出した。しかし郡代は、書式の体裁がなっていないこと、農民であるにも関わらず武芸を鍛錬することは不穏であるとの理由でこれを却下する。同志らはこの返答を受けて、松江藩が募集した農兵隊で軍事訓練を行ったことと矛盾するとし、自分たちは日本海の孤島で防備の薄い隠岐を自らの手で外夷から守るためにのみ武芸を鍛錬したいという内容で再度郡代に提出。

これに対し、郡代側は各村の庄屋を何度かに分けて呼び出し説諭するが、その中で、調方役人が「百姓の分際で一揆徒党の行為である」と威圧的な態度で対応し再び却下する。この様子は『隠岐島誌』に詳しいが、「百姓の分際」である十津川郷士が、御所の警衛を任されていることを知る同志は理路整然と松江藩の過ちを指摘し激論するのである。

2度にわたり嘆願を却下された同志は、それでも次の行動を起こす。即ち、もともと天領であった隠岐が幕府の権威が無くなり、尊攘の機運が天下に高まっている今、いつまでも松江藩の支配に縛られている必要はないとし、各村で文武研究の場を設けることとし、郡代を相手にせず、松江藩の真意を直接松江に出向き、確かめることとなった。

第三回目の文武館設置嘆願書を作成し、かつて隠岐代官として尊皇攘夷の大義を説き、農兵隊の募集にも携わった藩士を頼り提出するが、またも却下される。そこで今度は中央の情勢を探り、併せて正義の士を尋ね、我が初志を遂げようと幹部11名が密かに脱島し京に向かう。慶応4年(1868年)2月3日のことである。

いったいこの行動力はどこから来るのか。周囲を海に囲まれ、外夷に怯える生活をしなければならず、なおかつ自分たちを守ってくれる存在がないという状況から、自分たちが立ち上がらなければならないとの思いは、それほどまでに切実だったのである。

隠岐騒動


この間にも中央情勢は刻々と変化していた。即ち、慶応2年6月18日浜田城落城、石見は長州藩の支配下となる。慶応3年10月15日徳川幕府が大政を奉還、12月9日には王政復古の大号令が出る。翌慶応4年1月3日には鳥羽伏見で徳川方が完敗し、一気に戊辰戦争へなだれ込んでいく。隠岐の同志はこういった諸情勢を知らずに行動していたが、脱島の11名は西回り航路の風待ちで入港した浜田で長州藩士と接触することで、天下の情勢を知ると同時に長州藩協力の約束を取り付け、上京せずに隠岐に引き返す。

隠岐福浦到着は3月9日であった。一方11名の脱島を知った他の同志16名は、既に11名が京都に着いたものと思い、応援するため東回りで若狭から京都に入る。鎮撫使庁に書状を差し出し、朝廷直営の文武館設置と各戸に銃を備え付け、洋式銃術の訓練さらには航海術を学び、海軍の創設をも陳情している。回答は得られなかったが、驚くべき発想力である。

この間、松江において重大な事件が起こる。山陰道鎮撫使総監・西園寺公望が、徳川親藩であり大政奉還後も進退不明確な松江藩を取り調べるために来松する。一行は松江に入る前の2月26日、米子から隠岐公文(庄屋)宛の公翰を松江藩庁内の隠岐出張所に送るのであるが、隠岐から庄屋代表3名の到着前に出張所で前隠岐郡代が開封してしまう。

同月28日、庄屋たちが到着した際に開封したことを謝罪し公翰を渡した。鎮撫使からの公翰を無断で開封され、その公翰の末文に、「其国朝廷御領与相成候」とあったことから、庄屋たちは激怒して隠岐に帰国した。この公翰開封事件が隠岐騒動の発火点の一つに数えられる重大な事件となった。

そして3月9日、この報は先に浜田から帰国して会議を開いていた11名等にもたらされ、公翰の内容と松江藩の対応を知る事になる。翌10日、帰国した庄屋も合流し同志らとともに郡代追放を決め、3月15日、隠岐国分寺において、島後庄屋大会が開催された。郡代追放派と穏健派との間で激論が交わされるも決着はつかず、穏健派は退場。残った強硬派は自らを「正義党」と称え、穏健派を出雲党と呼んだ。同時に開催された上西村庄屋横地官三郎宅での同志派大会においても、議論の収拾がつかず混乱は3日に及んだ。

ここで、島内の崇敬を集める隠岐一の宮「水若酢命神社大宮・司忌部正弘」が調停に入り、なおも激論の上に郡代追放を決議し、檄文を島内の同志に回
すことになる。そこには「事宜によりては戦争におよび候も計り難く候間、武器類は勿論、腰兵糧等に至るまで持参なさるべく候」と並々ならぬ覚悟が伺える。

ついに島内は、郡代追放を唱える正義党と松江藩よりの出雲党に別れていくのである。3月19日の夜明け、島後中の正義等一同は総指揮役に忌部正弘を選び、上西・横地宅に集結し西郷の陣屋へと向かった。この時参集した人数はなんと3050人!これは島の全男子の36%に相当する数であり、動員できる最大の人数であったと言える。

この時西郷陣屋に詰めていた松江藩士は数名しかおらず、正義党同志の突然の蜂起にどうすることもできなかった。正義党は郡代山郡宇右衛門に対し、村役人3 名を使者に出し、6ヶ条の罪状書を突きつけ返答を迫った。郡代は激高し再三の返答にも応じなかったが、松江藩によって隠岐の状況を確かめに派遣されていた元郡代鈴村祐平の我が身大事の策に嵌り、ついに陣屋を明け渡し、郡代をはじめ松江藩士やその妻子らは御用船観音丸に乗り移った。無血開城である。正義党はその夜、退去の証として郡代に屈服状を書かせた。

その日は風向きが悪かったので、翌日出港するのであるが、その際に正義等は郡代に対し、餞別また路用として白米二俵、清酒二斗を贈っている。追い返す島民たちが歓呼の声で追い出すのではなく、酒樽やお米や飲料水を船に積み込んで、去っていく郡代たちを見送る。

五木寛之は、隠岐騒動の過程を「日本の中の非日本的な様式」と評している。「明治時代の一番特徴的なものはテロと裏切りと謀略です。隠岐はそうではなくて、島人たちが代官を追放しようという問題すら徹底的に討議を重ね重ねして、一番最後にやはり過激派である正義党の意見が通って、代官を追放することに決定するわけですね。単にストレートに暴力に訴えるのではなくて、徹底的に島民たちが話し合う。話し合ったあげくに決めたことに関しては、みんなががんばる。」

「明治維新の中で、いろんな一揆や暴動がたくさんありました。しかしこの「隠岐騒動」に見られるような、ねばり強い交渉、ひとつの思想とか学問を背景にして知識人と島民、村の中堅の有力者と大衆が一体になって、幕府の権力に対して正面から対峙し、しかもすぐに実力をふるうことなしに彼らを送り出した、そういう騒動は非常に珍しいんじゃないでしょうか。」
隠岐騒動が「やさしい革命」と言われる所以である。

(新潮45 昭和61年)

自治政府樹立


こうして郡代を追放し、島民による自治が始まることとなった。そこで正義党は、自治機関の役職を定めるとともに、当然松江藩の報復もあるものと懸念し、一層の団結を図るため、全島に檄文を発するとともに、島前へも使者を派遣し交渉に当たった。また幹部を京都に派遣し、松江藩による報復があった際の支援を鎮撫使庁に働きかけるなどの朝廷工作、さらに石州を占領している長州藩に対し支援を要請し、朝廷への斡旋と万一の際の援兵派遣を依頼した。

まさに一国の外交政策が展開されるのである。この自治政府の機構と明治新政府、パリ・コミューンの比較表を示したが、郷土史家、藤田新は、「誰が考案したものか全く不明だが、この自治組織の形態は明治新政府の組織形態
よりもはるかに高度である」と評し、作家、井出孫六は、『高等学校・国語Ⅱ』(平成二年三月刊)に次のように述べている。

「ときに、西暦1868年、右の役割分担表を見ながら、わたしは目を疑う。隠岐に自治政府が出現して3年後、遠くフランスはパリの城内
に成立したあのパリ・コミューンの役割分担と、それはあまりにも似通っているではないか。パリ・コミューンがわずか数か月の生命であったように、隠岐島後に幻のように現れ出た自治政府も、やがて2か月後、松江藩の反攻の前に、流血ののち崩壊する」。まさに辺境の島で、ありえないことが起こったのである。

自治政府機構の発案者は不明であるが、当時の島の教育水準あるいは文化度が極めて高かったことは間違いない。かつて平成6年度から24年度まで、故・松本健一先生の呼びかけで、「隠岐学セミナー」が18回にわたって、隠岐島後で開催された。その刺激を受けて、何度か開催された隠岐騒動の再現劇で、私はこの時の檄文を読み上げる役を得たことがある。読み上げる内に精神は高揚し、目頭が熱くなるのを覚えたものである。長くなるが、以下に正義党が全島に発した檄文を読み下し文で示す。

『そもそも、天地開闢より我が大日本は忝くも天津日嗣の知食し給う天皇の大御国にして、四海の内禽獣草木土石塵埃に至るまで、皆、天皇の御物にあらずと云うことなし。ここに御当国の義は寛永の度より徳川氏の支配となり、享保の度より雲州の御預所となり、郡代交代してその国の政を関わりとる。ここを以って幕府を指して君父と称し、国民その名義を失い、恐れながら天皇の御仁澤を戴き奉ると云うことを知らず。我ら鄙賎のものといえども常にこれを嘆きて止まらざれども、また他にこの旨を語り示して開明になすことも能わず。ただ我が力の及ばざるを痛慨いたすのみにて、荏苒今日にさし移り候折柄、外夷日々に切迫、皇国未曽有の大患、やむを得ずの形勢を察し、憂国の者とも去る卯の五月、防禦の筋嘆願に尽力いたし候らえども、揄安姑息を唱い、かつ暴怒を以って猥らに威し、採用いたさず、かの国の政をほしいままにし、酒食にふけり、文武ある者を嫉み、奸姨を近づけ、民心悉く相離る。その罪悪傍観坐視するに忍びず。よってこの度奸吏郡代並びに属吏に至るまでも、悉く追い払い、なおまた奸吏に同心いたし候者に至るまで、糾問いたし改心せしめ候は、全く私意を挟み候事にてはこれ無く、た
だ御国内を一洗し、人心を一和せしめたき志願より出で候事に候。かつ徳川氏謀反の色顕然、これより諸藩に追討の令を降ろせしところ、恐れながら悩せしところ、御叡慮候央、されば徳川氏の下に住みし者と言えども開闢以来蒙り奉りながら、天恩僅か200年余の恩義になずみ、幕府を指して君父と唱うるにおいては、ともに国賊の境界に入りて、皇国の民と呼ばれず。辱くも祖先以来父母妻子に至るまで養育せしめ、ひとしく年月を送り、或いは富み栄えて鼓腹歓楽に至るまで、悉く蒙り奉る天恩にて候。然れば自己の身命に至るまで、皆、天皇の御物にして、毛頭我が物にはあらず。ここを以って鄙賎を顧みず、身命を擲って尽力いたし、皇国の民たる名分を尽くさずんばあるべからず。ここに開明を遂げ、同志致すにおいては、これまで鄙賎を唱い、因循苟且いたし居り候者も、今日より、皇国の民たるべし。ここを以って能く弁別いたし、かつ御当国の義は本地隔絶の孤島、緩急の節は他に依頼いたし候事も当惑の至り、土兵にて暫時の喰い止め致さず候いては、醜夷犬卑のために国を略奪せられ、眼前の父母妻子を捕られ、祖先の位牌所も放火せられ、田畑をも蹂躙せらるるに至っては、これより大なる、神州の御永
辱はこれ無し。鄙賎の者においてもこの機を察し、二心を抱かず、皇国の民たる名分を失わざること第一に候。この末文武を励み、攘夷の御布告相待つべきものなり!

慶応四年辰三月

いかがだろう。土佐勤王党の志と相通ずることは一目瞭然である。驚くべきは、これが都や江戸城下での出来事ではなく、鳥も通わぬと言われた孤島の農山漁村での出来事であるという点にある。否、国境である離島であるからこそ、危機意識は逼迫している。元寇の折には対馬が蹂躙され、島民のほとんどが殺され、壱岐島は島民一人残さず虐殺されたことは同じ島に生きる民として、海防の意識の中に生き続けていた。

ともあれ、呼びかける側も応える側も、極めて高い教養と時代認識と何よりも志が無ければありえない話である。ではこの精神性はどこから来たのか。いよいよ島の私たちが隠岐維新と呼ぶ隠岐騒動当時の理論的精神的指導者の名を挙げねばなるまい。

その名は「中沼了三」

京都における当代きっての儒学者であり、孝明天皇と明治天皇激動の2代に渡り、天皇家に君子の要諦を侍講として教え、その私塾からは多くの維新の志士が学び立った隠岐出身の偉人。倒幕派が官軍となった鳥羽伏見の戦いでの征討大将軍、仁和寺宮嘉彰親王の参謀であり、翻った錦の御旗・・・

伝えなければならないことは数多あるが、残念ながら紙幅が尽きた。中沼了三という傑出した巨人について、そして隠岐騒動の顛末とその後の廃仏毀釈については次稿で紹介することとしたい。

おわりに


本年4月から有人国境離島特別措置法が施行されたが、これは従来の離島振興法が遅れている離島の生活基盤を整備することに重点が置かれたのに対し、わが国の国境を形成する離島を守ることが、国を守ることとの新たな理念のもとに昨年制定されたものである。

そのときは、中国による尖閣諸島への脅威という東シナ海に注意が惹きつけられていたが、竹島問題や昨今の北朝鮮の弾道ミサイル発射に見られるように、日本海の情勢は緊迫の度を高めている。明治維新150年を眼前に、海に守られてきた国境が今大きく揺らぎ始めているのである。

本稿で描いた隠岐騒動の維新史に、海の民の記憶は否応なく呼び覚まされるのである。もとより私は郷土史の研究家でも隠岐騒動の専門家でもない。本稿は紙幅の制約の中で、中沼郁「もう一つの明治維新」、藤田茂正「隠岐騒動の顛末」、大本竜也「隠岐騒動とその背景」など、先人の研究の一端を紹介したにすぎない。

隠岐の維新については陣屋奪回後の松江藩士の乱暴狼藉を恐れ、証拠隠滅を図ったり、その後の廃仏毀釈によって失われた文献も多く、隠岐以外の各地の文書による掘り起こしも含め、研究はまだまだこれからであろうが、150 年前、この辺境の地に国を想いながら自らのささやかな生活を守ろうと、知恵の限りを尽くし権力に立ち向かった情熱が確かに燃えていたことを子孫の
ひとりとして伝えたかったのである。

本稿を読んだ方が興味を持ち来島されれば、そこに神々に守られた美しい日本の原風景が息づいていることに驚嘆するであろう。

隠岐は文字通り隠された聖地だったのである。(つづく)

季刊 日本主義 No.40 2017年冬号 明治150年特集〈第5弾〉
「維新」を巡るさまざまな物語 掲載

吉田 雅紀(よしだ まさのり)
昭和33年、島根県生まれ。島根県議会議員(隠岐選挙区)。学習院大学卒業。元参議院議員秘書。昭和62年帰省後、流通・観光・製造・採石・産廃・福祉など多彩な仕事に携わりながら、平成27年4月より現職。


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