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【山紫水明】心の闇をほどく
あなたの周りを、とても明るい温かい光が取り巻いています。
この温かい光は、あなたの心を落ち着かせ、あなたに励ましと知恵と勇気を授けます。
そして何気ない日常生活の一コマ一コマに、あなたにくつろぎを与え、疲れた心を癒して、生きる意欲を授けます。
ふと気がつきますと、山肌が青く白雲がたなびき、青い空がどこまでも広がる山頂に腰を掛けています。
山の水を飲んでしばらく致しますと、再び自分が修行している山寺へと帰って行きます。
あなたは、かつて天下にこれほど広い城はないとうたわれた、北条家の家臣の一人娘でございました。
小田原城が落城と聞きますと、戦国の習いとして女子どもは皆、裏手門から逃がします。
早う火の手が回らぬうちに、裏手門から逃げるのじゃ。
手配はすでに整えてある。
父上はどうなさいますか。
わしは今から、この城の終わりを楽しむ。
物事の始まりがあれば、必ず終わりがある。
今でこそ負け戦になったが、わしは無名の兵士であった。
北条殿には、恩義が山とあるのじゃ。
こうして泣く泣く両親と別れますと、裏手門から逃がされ、籠に乗せられて、この山並み豊かな山寺へと連れてこられました。
これから先、自分はどうなるのだろう。
その不安でいっぱいでしたが、和尚さんはとても優しい方で、
どうじゃ。ここの眺めはよいであろう。
春になれば桜が一面に咲いてなあ。
この世の浮きこと悲しきこと全て忘れることができる。
私めは、この後どう過ごせばよいのでしょう。
まずは忘れることじゃ。
不幸なことに、まだまだ平和は遠いぞ。
平和を願うよりは、嫌なことを忘れることが先ではあるまいか。
そうは言われましたが、幼い心に焼き付いた、両親との別れ。
火の手が上がって、城が焼け落ちる姿が、とてもとても拭い去ることができませんでした。
簡単に忘れ去ることはできまいが、なあに、あと数か月もすれば忘れられるよ。
父母が亡くなって、どうして私が生きているの。
父母の恩義に、報いることができませんでした。
どうやったら、この心の重荷を取り除くことができましょう。
毎日毎日、そのことで悩んでおりました。
今でも責任感や、誰かのために生きるという気持ちが、おそらく人一倍強いのでありましょう。
ある時和尚はこんな話をしました。
この仏教を始められたお釈迦様はな、もちろん父母への恩義もさることながら、そもそもこの世に生まれたことが重荷であった。
何年も何年も、自分のような者に生きる価値があるのかないのか。
生まれてくるだけで罪ではないかと。
お釈迦様は思われたそうじゃ。
それはどういう意味ですか?
自分がこの王家の息子として生まれたことで、たくさんの人間が、この自分のために働いて身を犠牲にせねばならん。
戦争をすれば他国の人間を殺さねばならん。
シャトリアの家に生まれたからだな。
人を殺さねば生きてはいかれぬ。
いかに、栄華に囲まれたとしても、それは人の命と引き換えに得られたもので、贅沢をするということが、人の命の犠牲の上にしか成り立っていないと思うと、生まれてきたこと自体が罪だと、お釈迦様は感じられたらしいぞ。
そんな罪作りな自分に、何の意義があるか。
これがまず第一に、お釈迦様の苦悩であられた。
両親に恩返しをする以前に、生まれたということだけで、誰かに苦しみをかけておる。
長い間、この悩みは尽きなかったそうじゃ。
で、遂にその悩みは解けたのですか?
解けたからこそ、偉大な、仏教の開祖として名が残っているのでしょうね。
そんなことはなかったのじゃ。
城の中にいても、悩みが尽きなかったがゆえに、弟子を連れて、密かにある晩、城を抜け出されたそうじゃ。
そして自分は救われたのだが、人伝に王の苦悩を聞かれたらしい。
やがて王家は滅んで、自分の子どもが出家したばかりの自分を頼って来た。
その時、お釈迦様は思われたそうじゃ。
出家して自分は楽になったが、実家が滅んでしもうた。
自分は、生まれてくるだけでも不幸なのに、実家を潰してしまった。
大馬鹿者じゃ。馬鹿者の上に、さらに大馬鹿をやってしまった。
益々苦悩が深まられたそうじゃ。
そこでお釈迦様はこう考えられたそうじゃ。
この愚かな自分が、賢くなろうとしても無理じゃ。
どういう訳か、愚かであるのに、たくさんの人に生かされておる。
王もまた、亡くなられる前に、ゴーダマシッダールタを恨んではならぬ。
あの者にはあの者の考えがある。と言って、息を引き取られたそうだ。
その時、お釈迦様はこう思われたそうじゃ。
自分で自分を許すことができなかったが、不思議なことに他人によってのみ許される、とな。許しが無ければ、お釈迦様の悟りはなかったということじゃ。
そなたも同じじゃよ。
不幸にしてそなたの両親は火の中でもだえて死んだかもしれぬが、それはそなたが殺したのではない。
ご両親様が、そなたが生きることを許されたのじゃ。
そなたが今あるのは、ご両親の許しの上にある。
このように私は、仏教を解釈した。
悟るというとな、何やら偉そうな人間になるように勝手に思ってしまうが、
許されている自分を深く自覚することじゃ。
釈迦の悟りは、そこにあった。
お前さんの場合は、両親がお前が生きることを許した。
自分以外の人間に許されて初めて、人間は自分で自分を許すことができる。
最初から自分で自分を許すことはできないのじゃ。
ここに人間の秘密というものがある。
そして仏典にはこう書いてある。
つらつら考えるに、両親の恩ほど大きいものはない。
両親はこの愚かな私を許された。
その事実を深く認めた時に、初めて私は私を許すことができた。
それが、この釈迦の悟りだ。
このようにして、山紫水明
見事な眺めの山頂において、深く静かに、あなたの心の闇が、不思議の力でほどけてゆきました。
長い間、自分はもっと働かねばならん。
もっとしっかりせねばならん。
その裏には、両親の期待に応えられなかった自分を、あるいは周囲の期待に応えられなかった自分を、許すことができない、そんな思いが潜んでいたかもしれません。
人の一代で、釈尊の悟りを、なぞるような大それたことはできないかもしれません。
しかし、いつか必ず、この釈尊の辿られた、人が自分を許すことを通じて、自分で自分を許すというその悟りの道を、再現する日が来るのであります。
今が、その時かもしれません。
あなたは、自分で自分を許す。
そして初めて人は本当の意味で人を許せるのです。
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