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【安らぎの境地へ至る】魂の解明

もしも人に、魂の声なるものが聞こえてきたら、いったいそれはどのように聞こえるか。

私たちは皆、生身の人間であるがゆえに、自分の立場に寄り添う形で、コメントを与えて頂きたいと思うのが、人間の性(さが)である。

しかし考えてみれば分かるように、人生というのはまったく通りすがっただけのような人から、貴重な話を頂いたり、親の話にしても極々、断片的な話の中からのみ人生のヒントを得るのである。

私たちは皆、人生というジグソーパズルを目の前にして、実は面食らっているのである。

私たちは誰一人、そのジグソーパズルの全体像を見せられることは、遂に無いと言ってよい。

そして、この人生には、実に驚くべきことが次々と起こる。

絶望のどん底に落とされたり、喜びの絶頂の頂きに立ったりもする。
ゆえに、仮に神がいたとしても、私たちはその神の御心の全体像をつかむことは、到底でき得ない。

誰もが完全には納得しない形で人生を送り、そうして時おり、目の前の草木や、あどけない子どもたちの笑顔を見て慰められるのである。

欲深き人間は、なんだこれっぽっちかと思うかも知れん。
だが、年数を重ねたそれすら味わえない人がいることを知って愕然とする。

ゆえに、星の瞬き、風の梵(そよぎ)、花が風にそよぐ様を見たとき、川のせせらぎを見たとき、幼な子の笑顔を見たりして癒される者は幸いなのだ。

誰もが人生の重荷を理解してもらいたいと思う。
心無い言葉を言われると大いに傷つく。

それほど、私たちは長い長い人生という砂漠を経る過程で、実に魂は喉がカラカラになるが如く渇いているのだ。

十字架で息を引き取る直前に、かのイエスキリストも言ったではないか。「我は渇く」と。

しかし、生きている間に自分の人生が価値多きものであったと納得せずに死ぬとすれば、これほど悲しいことはあるまい。

しかも私たちは、いつ自分の死がやって来るかを完全には予期することができないのである。

ゆえに、ここに問題が起きる。
何をもって自分の人生を幸せと断定することができようかと。
もちろんそれは、年齢や職業、経験によって違う。

君は今、人生の幸せを総括する時期に来ている。
自分の長いようで短かった人生を振り返り、これを幸せと言えるか、不幸せと言えるか、あるいはそんなに単純に割り切れるものではないのか。

君の心を満たすものは何か?
あるいはぽっかりと空いた穴を埋めるものは何か?
君にとって最大限に価値のあるものは何か?
それは人か物か出来事か?

君は実に不思議な魂である。
人生の様々な悲哀や喜びを経験しながら、なおかつ、そんな自分を違うところから見ている自分を感じている。

君は自分の人生を演ずる役者であると同時に、君の人生という物語を読む読者ですらある。

いいかね、君はかつて幸せな結婚生活を夢見て、そしてそれが実現したかに見えた。しかしやがてそれが大きな悲劇を生んだのだ。

君は幸福を演じようとした。
つまり人生の役を演じようとしたのだ。
幸福な女の人生を。

しかしね、君は今、本当の自分に気が付く時期に来てるのだ。
君は本当は幸せになることを求めていたのだろうか?
周りの人が幸せを求めているから自分も幸せを求めなければいけないと、そんな風に思ったのではないか?

いいかね、今こそ君は自分の魂の声に耳を傾けなければならない。
君が求めたのは、ありきたりの女の幸せでもなければ、一般常識的にいう満たされた生活でも全然無いのだ。

それは、世間の照準からすれば変わってると言えるかも知れん。
だが、君は君でしかない。
君が君以外になることは出来ない。
どう高望みをしようと、別の人生を送りたいと切望したとしてもだ。

いいかね、今こそ君は君の魂の声を聞きなさい。
君が目指したものは、幸せというもので一括りにできるような状態ではない。

では何を求めていた?人はこの世に生まれるからには、何かを求めてこの世に生まれてきたということは確実である。

そして多くの人はそれは幸せだと言う。
本当にそうだろうか?
全人類がこの課題に直面しなければならないのだ。
本当に幸せを求めているのか?
もちろん、不幸せを求めている人間は一人もいまい。

いいかね、20世紀はね、私たち人間が幸せになるために生まれてきたと勘違いし、しかもそれを物質的な条件に置き換えたのだ。
広い家に住み、大きな財産を持つ。

いいかね、21世紀、そろそろ私たちは本当は何を求める存在なのかに、気が付くときに来ているのだ。

全人類が新しいステージに到達しようとしているのだ。

いいかね、如何なる哲学者もこの問いに答えてはくれない。
一人ひとりが胸に手を当てて、何を求めて生きているのか、これを考え直す時期に来ているということだ。

いいかね、もし幸せを単純に求め、なおかつそれだけが人間の願いなら、慈悲深き神はとうの昔に幸せを与えているとは思わないかね。

人間の親ですら本当はお菓子を与えたくないのに、必死でお菓子が欲しいと言えば、お菓子を与えるではないか。
我々以上に慈悲深き存在が、私たちの叫びを無視したもうわけがないのだ。

よいか、今回のタマヒリは君の前世でも来世でも天国でもない。

君の魂の解明だ。

20世紀、私たちは大きな勘違いをして生きていたのかもしれない。
人は誰もが幸せになりたいと。

そんな単純で浅はかな一言で、全員の人生を一括りにしてしまった。
そして、未だ幸せになっていない人、可哀想な負け組としてレッテルを貼ったのだ。果たしてそんなものだろうか?

例えば、西洋人の人生観の根底には新約聖書があるとよく言われるが、だが新約聖書を深読みした人間が何人いるかね?

新約聖書を深読みしたまえ。しからばイエスが聖書の各小節ごとに次の言葉を発していることに気が付く。

私の平安をあなた方に送ると、幸福という言葉は使っていないのだ。

この証拠に私達は注目すべきである。
私達は新約聖書を勘違いして解釈した。
しかもそれが約2000年も続いたということだ。

彼が聖書に於いて最大の力点を置いたのは平安、サンスクリットではシャンティという。

これからあらゆる哲学、宗教、信条、経営が根底から見直されるときが来る。

本来の目的に立ち返った者だけが、全ての闇を反転して光の世紀を築くに違いあるまい。

ゆえに私は次のように力説する。

君の魂は、紛れもなく今日の人類への紛れもなき提言を続けているのだ。
人の魂は実は平安を求めている。
幸福の絶頂でもなく、踊り上がるような喜びでもない。

幸福ならば、種々の物質的な条件が必要だろう。
豊かさ、友達の数、人から褒められた数。

だが平安は違う。
人の助けを借りない。
自ら作ることができる。


幸福という言葉は舞い上がらせる。
平安という言葉は私たちを落ち着かせる。

幸福は自分よりも成功した人間を見るとついその人間を真似したくなる。
しかし平安は違う。他人がどれだけ成功しようと失敗しようと、当人にとっては全く関係の無い出来事なのだ。

当人自身の生活に、深く根を下ろし、自分自らを生きる。
これが平安という言葉の持つ威力である。

君は、同世代の女性とはずいぶん変わった人生観を持っていると、自分でも思っているし、周囲の人間も思っているに相違あるまい。
しかし、そんなことはどうでもいいことだ。

私は直ちに君の魂の核心に迫ろう。
君は安らぎを求めていた。
君の元夫は幸福を求めていた。

しかし、君は違ったのだよ。
君は安らぎを求めていたのだ。
その違いがはっきりと分かったのは、残念ながら結婚して時間が経ってからのことだった。

しかし、それは失敗だろうか?
ここではっきり、成功と失敗の定義を宇宙的にしなければならぬ。

君は君自身の魂の本質に気が付き、自分が本当は何を求めているかを知って、そこに立ち返ったときを成功と名付けるなら、君の人生は成功だらけなのだ。

ゆえに君は自分の人生を総括し、このように句読点を打ち給え。

私の人生は安らぎを求めていた。
この原点に立ち返ることができた私の人生は実に成功だらけであると。

このように気が付くなれば、君の潜在意識は直ちに活動を起こし、自分のこれまでの生活のどこに安らぎがあったか、何が幸せであったか?何が幸福であったか、何が安らぎであったか、直ちに分別を始めるだろう。

そして、私が申し上げた通り、君の潜在意識は直ちに活動を起こして、君の人生の過去の出来事の数々の中から、安らぎというジャンルに君の人生が傾斜していたことに気が付くだろう。

他の女性と、生き方が変わっても、そんなことを気にする必要は全くないのだ。

何度も言うが、君の魂は安らぎをこそ求めていた。
この安らぎを得るのに多額の金品は必要としない。

いいかね、本当に大切なものはお金では買えないのだ。
あと数年で全人類がこのことに気が付く。
先んじて君はこのことに気が付け。
そして君の魂を落ち着かせよ。

私たちはまだ、自分の魂を落ち着かせることに慣れていない。
魂は常にふわふわとして、自分の目的以外の物に興味と関心を移し、人生の大半を無駄に過ごす。

何度も言おう。君の魂は安らぎをこそ求めていたのだ。
それは君だけではないぞ。

先駆者としての魂は皆かような基準を持っている。
ただそれを世間の誰もが指摘しなかっただけだ。


この地球に生まれた誰もが、生まれ変わりの最後に気がつかなければならない大切な真実、魂は幸福というより安らぎを求めているということだ。

そしてそれは、他の誰の助けも借りずに自ら作ることが出来るし、またそうしなければいけないということだ。

神よ、今、この者が人生の暗闇の中に差し込んだ一筋の光明を手掛かりに今、新たな人生を築こうとしております。

そして、この者にとり、今の私のこの言の葉が大いなる助けとなり、新たな人生を切り開く縁(よすが)となりますように。

世界の温もりの根源に触れよ
まず、第一に生活のすべてを祝福しよう
自分がこの世に生まれたことを祝福しよう

色々なことが次から次へと起きたが、にも関わらず、君は持ち前の快活さと親切心で乗り切った。まず、それを祝福しよう。

父と母の出会いがあり、幼少期を経て、類稀な知的好奇心、明るい楽天的な心と、世界のあちらこちらを旅して周り、青春の踊り上がるような喜びを経験し、このままラストシーンを迎えるかと思いきや、最後に到達するのは深い安堵に満ちた安らぎの境地なのだ。

人はいずれ、この世を去らねばならぬ。
去ってあの世に帰ったとき、何が起きるか教えてあげよう。

自分の知識も経験も、すべてを天使に捧げる。
その上で天使は、最大の歓喜を私たちに与えてくださる。

それが人間の真実だとしたら、生きている間にこれを為すことだ。

君が今住んでいる家を、天使の館としなさい。
天使が住み給うならこんなリビングに住みたもうだろう。

天使が好みそうな絵とは何だろう?
天使が好みそうな皿とは何だろう?

いいかね、女性というものは男性に好き勝手に弄ばれて、被害者意識だけで終わる人生ではないのだ。

太古の時代はそうではなかった。
実に喜びを創り出す原動力であった。

光が広がりますように

神よ、光を広げたまえ

光を差し込みたまえ

宇宙の天上の光を

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