見出し画像

【進化する宗教】町田宗鳳 × 五島秀一

宇宙に感謝 

SOHO 生命科学で注目されている「パンスペルミア説(宇宙汎種説)」では、生命の起源は宇宙にあるとされている。ウイルスが彗星や隕石に載って地上に到達し、そこからDNAを組み立て、生命を進化させたという考えだ。コロナウイルスも、感染源は地上にどこかにあったはずだが、元々は宇宙から飛来した可能性が高い。天動説から地動説への転換は16世紀にコペルニクスによってなされたが、私たちの意識はまだ天動説的な世界観に留まっている。私たちが宇宙を故郷とし、母なる宇宙に抱かれているという意識に切り替えると、ずいぶん世界の見え方が変わってくるはずだ。宇宙から地球を見直すなら、国と国が戦争をし、領土を奪い合うなど愚の骨頂である。人間意識のコペルニクス的転回が、これからの課題となるだろう。その手始めが、宇宙に感謝の念を抱くことではなかろうか。

SHU 人間は未だに、何でも知ろうと思えば知ることができるという知力至上主義に陥っていますが、コロナのような常在ウイルス的なものに、攻撃を仕掛けようとしても上手くいきません。何でも知ろうと思えば知ることができるのではなく、真の知は、感謝とやすらぎの心があってこそ、与えられるものなのでしょう。

病みと闇、そして光へ

SOHO   人は病みを抱えている。肉体が病んでいなければ、心が病んでいる。その両方が病んでいる者も少なくない。病みは闇となり、その闇の中で人は悶え苦しむ。誰もがその闇から速やかに逃れることを願うが、なかなか思うようにならない。しかし、その闇の只中に、やがて光が差してくる。絶望の闇に火を付けるのは、生きることへの信念であり、その拠り所となるのは信仰である。但し、形式を超えた信仰に目覚める者は少ない。

SHU  宇宙形成の歴史を見ると、ビッグバンから三十八万年後の闇の中から、光が立ち昇ったと言えます。人生も然りです。いつでも闇の中から光が立ち昇るのです。

文明と人間の心

SOHO  文明崩壊の危機ということは、各方面の識者たちが早くから警告してきたことだが、その原因となるのが、核戦争、地球温暖化、パンデミック、破滅的大恐慌などではないかと予想されている。恐ろしいことだが、いずれの予想もかなりの確率で現実化しそうな気配がある。その分野の専門的知識を得、客観的に状況を判断すれば、誰だって悲観的にならざるを得ない。しかし少し考えてみれば分かることだが、いずれのシナリオも人間が引き起こすものであり、単なる自然災害ではない。そして、いずれのシナリオも、他ならぬ人間の病める心が引き金となる。つまり、文明崩壊の危機とは、領土拡大、権力掌握、経済的支配を求めて狂奔する人間の飽くなき欲望のことなのだ。一例を上げれば、すでに広大な国土をもつ中国やロシアといった国が、さらなる領土拡大のために、他国を脅かすなんてことは、よほど心が病んでいなければあり得ないことだ。そして、そういう軍事的大国を率いる指導者は桁外れな権力欲に駆られているに違いないが、本人たちにその自覚はない。ヴァミク・ヴォルカンの『誇りと憎悪:民族紛争の心理学』を読めば、民衆を扇動する政治家が、どれほど病んだ精神の持主であるか納得できる。幼少期から深刻なコンプレックスや発達障害を抱えた人間が権力を握ってしまうと、内面の虚無感を穴埋めするために、大規模な暴力行為に集団を巻き込んでしまうのである。太平洋戦争に日本国民を引きずり込んだエリート軍人たちも、冷静な精神分析をすれば、相当に幼稚な精神の持ち主だったことが判明するに違いない。個人の心の闇が国家の闇となる危険性は、つねにあることを忘れてはならない。

SHU  このままいけば、IT技術に長けた中国が、全世界を支配するのが目に見えています。

政治の劣化

SOHO 中国が海警局を「第二海軍」にしてまで、軍事力を増強し始めた。現場を知る自衛官に聞くところによると、尖閣諸島を奪われるのも時間の問題という。各国がコロナ対策に追われている間に、中国は世界覇権に向けて大きく動き出している。文明史的に見ても、アメリカは超大国の座を中国に譲ることになるだろう。そんな危機的な状況にあって、日本の国会では官僚の接待問題ばかり議論している。そんなことは大昔からあった悪弊であり、今さら些末な問題で国会を空転させる背景には、何があるのだろうか。少し前は、森友問題。野党は与党の揚げ足取りしかできないし、メディアもそれに拍車をかけている。政治家や官僚の不正を正すのは司法に任せて、立法府の議員には国家の大計を論じてほしい。昭和初期のように、政治の劣化は、やがて大きな災厄を招くことになるだろう。事が起きてしまってから、後悔したところで後の祭りである。

SHU 冷静さを欠いた指導者は、彼我の勢力を客観的に眺める理性を持たず、国家を戦争に巻き込み、挙句の果ては責任を取ろうとしません。戦争は決して美化すべきものではありません。負けてはなりませんが、勝つべきものでもないのです。

神の誕生

SOHO 人間の意識は同じ所に停滞することはないので、自然の造形物を拝むうちに「神」という概念が生まれたのだろう。実在する太陽・月・山岳の向こうに目に見えない超越的な存在があると想像し、それに「神」という名を付けたのである。もちろん、民族文化によって「神」の呼び名は異なったが、本質は同じである。一神教的世界では、人間が想像したに過ぎない超越的存在をヤーヴェ、ゴッド、アッラーという名で呼び、その名の違いによって血なまぐさい闘争を繰り返してきた。その愚かさにも気づかないところに、人間の幼稚さがある。ブッダもまた、古代インドから連綿と受け継がれてきたブラフマン(真我)という概念を「仏」と呼び変えたまでである。彼が革新的だったのは、その「仏」を発見するための具体的方法を提示し、そこに何の社会的階層も無関係であることを説いたことである。「涅槃」という永遠の平和を究極的な理想として描いたのも、古代インド社会が徹底的に不平等で、悲惨さを極めたことへの反動かもしれない。精神医学としての宗教は、このようにして形成されていったのである。

SHU 今後宗教は、大脳生理学的にも、精神の安定装置としての位置付けが確立されていくことでしょう。

装置としての宗教

SOHO どれだけ高邁な宗教であったとしても、それは人間が作った絶望からの救済装置である。そういう考え方は、宗教を否定するわけでも、軽んじるわけでもない。教祖を神格化して崇めるという心理も、絶望を希望に転じたいという願望が変形したものであり、時代を経るうちに一人格が偶像化されることになる。自分たちが聖典と認める書物の価値を絶対化するのも、厳しい現実の前では、あまりにも脆弱な存在である自分たちの拠り所を見出したいという願望に由来している。そこに記されている教義も、一個人が絶対的権威で語ったというよりも、多くの人間の智慧が集積されたものであり、その内容には時代の制約があるものだ。そのへんのことを冷静に理解していないと、他者が自分たちの教祖や聖典を侮辱したという理由で、果てしない闘争を繰り返すことになる。

SHU 時代が宗教者をつくります。それは、切実な時代のニーズに応える形で誕生するのです。従って教義の中にも世俗的要素が混入します。しかしその中には純粋な啓示もまた、含まれるのです。

宗教の進化

 SOHO 宗教が人工的な装置であることを理解するのなら、当然のことながら、その装置は時代とともに進化していかなくてはならない。十九世紀に製造された自動車は、一部のマニアによって大切に保存されているかもしれないが、現今の高速道路を走るわけにはいかない。そして今、我々が運転しているガソリン車もハイブリッド車も、五十年もすれば、道路から消えているだろう。しかし、宗教は自動車のように柔軟な変化を見せていない。人間の意識も時代によって変化するわけだから、現代人を絶望から救い出す救済装置も変化しなくてはならないのに、それが起きていない。そこに重大な問題がある。キリスト教が基層文化になっている欧米社会では、大小無数の教会が存在している。どの国を訪れても、大都市には大聖堂が、農村部には瀟洒なチャペルがある。しかし、そこで開かれる日曜日のミサに出席する信者たちの数は、ごく限られたものだ。というよりも、司祭が不在のため、ミサ自体が開かれない教会も少なくない。それと同じことが、日本でも起きている。全国津々浦々に仏教寺院があるが、彼岸や盂蘭盆といった特殊な期間は別として、檀信徒が集うことは、ほとんどない。古い建物を維持するための経費を布施する住民も激減し、ほぼ廃寺になっている寺の数など、まさに真砂のごとしである。その現象は、いわゆる現代人の宗教離れに原因があるわけだが、なぜ宗教離れが起きたかといえば、その答えは明白だ。古代から精神医学としての役割を担ってきた宗教が、現代人の心理的ニーズに応えていないからである。

SHU いま再び、宗教が、哲学が、精神思想が、口を開くべきときが、きました。

なぜ神を信仰するのか

SOHO 宗教に入信するということは、その宗教が絶対的真理と位置づける特定の神を信仰することを意味する。旧約聖書の「創世記」には、神から生贄としての長男の殺害を求められたアブラハムが、その命令に従おうとする場面が描かれている。なぜ、そこまで神を信じるのか。それは、自分の存在価値を神に投影しているからだ。分かりやすく言えば、熱烈な恋愛感情を抱いている若者が、恋人の存在が世界のすべてだと思うようなものだ。当人は、もし自分が恋人に捨てられてしまえば、もはや死ぬしかないと思っているかもしれない。その証拠に、古今東西、失恋が原因で命を絶った人間の数は、計り知れない。恋人は自分にとって全存在であり、それが否定されるようなことがあれば、この世に存在する意味がなくなってしまうのだ。宗教において、神を渇愛する人間も同じ心理である。恋に陥った人間が自分の全存在を恋人に投影するように、信仰者も自分の全価値を神に投影することによって、生きがいを見い出しているのだ。特に現実が、何の希望も持てないような悲惨な状況であれば、よけいに現実を超絶する絶対者としての神を渇望することになる。

SHU 超越的絶対者を想定しなければ、わずか数十億年で生命が誕生することなど、確率的にありえないのです。

心の軸

SOHO 戦後日本で新宗教が雨後の竹の子のように誕生した時も、戦争で家族や財産を失ってしまった人間が、底なしの虚無感から自分を救い出すためだった。そこに明るい未来を予言してくれるような教祖がいれば、大いなる励みとなっただろうし、確信的な教えが説かれている経典があれば、自分が寄って立つ心の軸になっただろう。地球も地軸を中心に自転しているわけだが、モノがこの世に存在するということは、必ず軸を必要とするのだ。軸がなければ、バランスを保つことが出来ない。地軸というものが実際に存在しなくても、地球はそれなしに存在し得ないわけだ。無宗教の立場にある現代人は、あえて宗教という軸を求めていないことになるが、それは必ずしも真に自立しているというわけではなく、たいていの場合、世俗的な価値観を精神的な軸に置き替えているだけのことである。恐らく新時代の宗教は、特定の神や教義への服従を求めない普遍的かつ開放的な軸を提供するものになるだろう。

SHU かつて、科学が宗教に取って代わりましたが、これからは、科学の厳しい目に耐え得る真の宗教が立ちのぼるはずです。

神と自然 

人間は長い間、全知全能の神を信じて生きてきた。だから、人々は神を讃えるための巨大な施設(教会、モスク、寺院など)を建てるために、惜しみなく私財を投じたのである。しかし今、教会にせよ、寺院にせよ、そこに足を運ぶ信者たちの数が激減しているという事実は、何を意味するのか。近代合理主義が人間の思考回路に浸透するうちに、最も崇高にして、最も畏怖すべき存在だった神が、単なる迷信の対象と成り下がってしまったのである。もちろん、今も神に対して揺るぎのない敬虔感情を抱いている人たちもいるが、もはやマイノリティーだ。中世社会のように誰もが神に対する畏れを抱いているのなら、神の被造物である自然を大規模かつシステマティックに破壊することはないはずだ。中世の蒙昧から目覚めたのは良かったが、自然への畏敬の念をどう回復するのか、これが新しい人類の課題だ。

SHU これからの時代は、信仰無き科学も、信仰無き教育も、信仰無き芸術も、信仰無き政治経済も、何の役にも立たなくなると言えるでしょう。

偶像崇拝

SOHO 敬虔な一神教徒は、多神教徒が山や岩や樹木を礼拝対象にしていることを偶像崇拝と呼ぶ。しかし、彼らが絶対真理と崇める超越神、あるいは十字架その他の宗教的シンボルが偶像崇拝ではないと、誰が断言できようか。人間が完全に偶像崇拝から免れることは不可能だ。近代社会で高い評価を受けてきた科学や民主主義だって、一種の偶像に過ぎない。ただ、偶像崇拝が悪いわけでなく、人類社会が再び大規模戦争に突入しないためにも、これから千年間ぐらい共有できる崇高な偶像が見つかっていないことが問題なのだ。私が人類の共通基盤としての無意識の掘り下げを強調するのは、そのためだ。

SHU 地球は丸く、太陽も丸く、宇宙も丸い。形の完全美を通してはじめて、形無き完全美を知ることができます。

結びとしての身体 

SOHO 自分の身体において、光と闇、無限と有限、絶望と希望が結ばれている。そこで生と死、善と悪も、切り結ばれている。そういう意味で身体そのものが、奇跡である。その奇跡の身体を自殺や無謀な行為で殺めることは、絶対に避けるべきだ。絶望があれば、その絶望が希望に変わるまで、忍耐強く待っていればいい。身体があるかぎり、そこに光が差してくることもあるのだ。この苦難に満ちた俗世にあって、健康に幸せに長寿を全うすることが出来る人は、ほんとうに神に祝福された人だと思う。

SHU エマヌエル・スウェーデンボルグは言いました。肉体を持ってこの世に生まれなければ、あらゆる次元をすべて観ることができない、と。

おまかせ

SOHO 宗教の極意というのは、一言でいえば「おまかせ」の精神である。いずれの宗教も自我否定を求めるのは、「汝自身で患うなかれ」と言っているのと同じことだ。世間一般では、念仏信仰を他力本願、禅は自力本願と言われている。しかし、禅の境地も究極的には絶対他力の世界に浸ることに他ならない。道元禅師も「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」という言葉を残している。自己を諦めることが宗教の原点となっている。「自分の力で何とかなる」と思っているうちは、信仰が成立していない。何事も心配し始めれば、おちおち夜も眠れない。しかし、それもこれも「おまかせ」していくのが信仰者の生活だ。

SHU 頭で信じるといっても、実は己れが許容できるほんの一部を信じているにすぎません。頭を超えなければ、すべてを信じることなどできないのです。

絶対の安心を求めて

SOHO 人間がいちばん求めているのは、絶対の安心感ではなかろうか。どれだけ裕福になったところで、どこかで財産を失う不安があれば、幸せであり得ない。人も羨むような名誉を得たところで、何かのスキャンダルに巻き込まれることもあれば、迫り来る死の前に名誉など何の意味もなさないことに愕然とするかもしれない。非の打ちどころのない健康を謳歌していても、晴天の霹靂のようにガンや脳梗塞のような病気に罹ってしまうことも、よくあることだ。自分が平穏に暮らしていても、家族や友人に不幸があれば、たちまち心は動揺する。この世に生きて、まったく不安のない生き方というのは、それほど難しいことなのだ。現象面では、私たちは例外なく危うい人生を生きている。では、安心立命はどこにあるのだろうか。 当然の帰結として、その安心感は移ろいゆく現象を超えたところにしかない。疾風怒涛のような現象に直面して、安心しておれるというのは、どういうことなのか。それには、不安や恐怖の原因である自我を捨てるほかないのだが、そうはいかないところが人間の悲しさだ。

SHU 自我を捨てると、自分のすべてが無くなるように考えてしまいます。私たちは、睡眠によって自我を失いますが、目覚めたときは新たな活力に満たされます。自我を失ったとき、私たちは真我を得ることができるのです。

解き放つ覚悟

SOHO 人として、この世に生きることは憂いが絶えないということだ。時には「弱り目に祟り目」というようなことも現実に起きてくる。そこで悩み苦しむのは当然のことだが、その苦しみをずっと抱えて生きるかどうかは、本人の意識の持ち方次第ということになる。「放てば手に満てり」と言ったのは道元禅師だが、どうせ自分の力では、どうしようもないことなら、そのこだわりを捨ててみれば楽になるということだ。そういえば、「放下著(ほうげじゃく)」という公案もあった。何もかも、うっちゃってしまえば、そこに生きるよすががあるということだ。そんな境地に至るために、別に坐禅を組む必要はなく、この瞬間にも心配事を解き放てばよいのである。

SHU 人は、手を握りしめて生まれてきます。だから人生の前半は、掴もう掴もうとします。しかしいつまでもそのままではいけません。手を開くことで、新たに手のひらに宿るものがあるのです。

町田宗鳳 比較宗教学者。1950年京都府生れ。14歳で出家、臨済宗大徳寺で修行後34歳で渡米。ハーバード大学神学部で修士号、ペンシルバニア大学東洋学部で博士号を取得。プリンストン大学東洋学部助教授。国立シンガポール大学日本研究学科准教授。東京外国語大学教授。広島大学大学院総合科学研究科教授。ブログ「ありがとう」の風
五島秀一 山口県岩国市生まれ。広島大学理学部数学研究科卒業。大学時代より宇宙の秩序と調和を見出す宇宙論を研究。一般財団法人秀物理学研究所代表理事。超越気功協会会長


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?