見出し画像

アートの「重さ」とフェティシズム

【雑感:アートの「重さ」とフェティシズム】

今日(2021/10/22)のさいたまアーツセンタープロジェクト(SACP)のプログラムへ向かう道で、仲間と話しながら言語化できてきた事柄についてメモしたいと思い以下を記します。

SACPについては以下参照↓


アートの現場は、参加したら楽で楽しい場所だけじゃなくてある意味「重さ」を共有する場所でもあるのではないかと。その感覚をどう伝えればいいのか、どう表現すれば誤解されないのか、そもそもそれを伝えることがいいのか、それらについて、道中、コンビニで腹の足しになるものを選びながら話していました。

その「重さ」とは、なんなのか。それは、生きることそのものを扱う作家の作品や表現の体験をすることで、改めて生きること、手放していたものと関係を構築する機会に出会うからなのではなないか。

「重さ」という感覚は、最近読んでいる本の中で覚えたもの。

ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの著「なぜ世界は存在しないのか」の第5章「宗教」の中で、指摘している点でとても興味ぶかいのは、ー自らの作った対象に超自然的な力を投影する「フェティシズム」によって、ひとは合理的な全体に自らの同一性を統合できるーという点。ガブリエルによると「フェティシズム」とは、ポルトガル語の「フェティース-feitiço 」に由来し、その元となった「作る」「なす」といった意味のラテン語「ファケレ-facere」が潜んでいる、「フェティッシュ」とは、ひとが自ら作ったものの意。それも、ひとが自ら作ったにも関わらず作った人自身が自らを欺いて、自分がそれを作ったのではないと思い込んでいる、「フェティシズム」とはそういうものに他ならないと指摘しています。

続けて、何らかの仕方で理解することのできる全体の一部分として自身を捉えることができれば、自分は孤立せずに済み守られていると感じ、安心できる。物事がそれ自体で規則に従い、動いていると考える方が、他のものに配慮し続けて生きるよりも、ずっと生きやすい。社会というすべての全貌を把握できないものに、一つの構造を投影すること。そこにフェティシズムが生じ、真正面から自らの同一性に対してわたしたち一人ひとりが責任を担っていること、社会環境の中にはめ込まれていることを受け止めなくてよくなり、楽になるのだと記述しています。

アートに参加する事は、そのフェティシズムにより、関係を持たないと設定していた事柄や、目を覆い見えないようにしていた物事と改めて関係を築き、見えるようにする機会になる事が多々あります。それは感覚的に「重い」と感じる事も多いと思いますが、この「重さ」をどう共有するのか。

フェティシズムにより楽になった事柄たちと改めて関係を持とうとするのだから、それは重くなるよな。と。けれど、そのままの「重さ」をぶん投げるだけでは何も変わることはないーそこにアートの面白さがあると私は考えています。

また少し言語化できたら言葉にしたいと思います。

常にフルで対峙する場所SACPがあってとても重いですがとても幸せです。

おやすみなさい。

⚫︎写真作家・造形ワークショップデザイナー ・キュレーター・「時間」と「記憶」をテーマに制作。2012年〜ヒロシマの被爆樹木をフォトグラムで作品制作 ●中之条ビエンナーレ2019参加アーティスト ●さいたま国際芸術祭2020 市民プロジェクトコーディネーター