日記③――三島由紀夫「雨のなかの噴水」について

突然ですが、あなたは、三島由紀夫の小説では何が一番好きですか?

『仮面の告白』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『美しい星』、『豊饒の海』など三島由紀夫の小説はどれも評判が高いのは知っているが、いかんせん長編だし、小難しいし、グロテスクな描写があるし、ちょっと苦手だなという、そこのあなた!ぜひ、「雨のなかの噴水」という愛すべき短編小説から、三島由紀夫入門を果たしたら、いかかがだろうか?

「雨のなかの噴水」という三島の短編小説は、『真夏の死』(不穏なタイトルだ)という文庫本で手軽に読めるので読みやすいし、なにより短い!
だが「雨のなかの噴水」は、三島由紀夫の独特なモチーフがきちんと読みとることができて、味わい深い名作です。本当に素晴らしい短編小説です。

簡単にあらすじを述べておく。
少女(雅子)に少年(明男)が「別れよう」の一言を伝える場面から小説は始まる。「別れよう」の一言を、少年が少女に伝える際に、痰(たん)が喉にからまり、不明瞭に少年はその一言を言ってしまった。だが、どうやら少女には伝わったようである。なぜなら、少女の大きな目からは涙があふれて止まらないからだ。
雨が降るなか、泣き止まない少女を連れて、少年は噴水がある公園まで移動する。噴水を少女に見せて、いくら泣いても噴水には敵わないことを少年は示そうとしたのだ。
はじめ、公園にある噴水にいたく感じ入って、噴水を眺めていた少年だったが、だんだん、雨が降る風景のなかの噴水はつまらない無駄事をくり返しているように感じてしまう。
少年が噴水の前から立ち去ろうとすると、少女は「どこへ行くの?」と尋ねる。少年は「そんなことは、俺の勝手だ。さっき、別れようと言っただろ」と少女に向って念を押すが、少女は普通の声で「へえ、そう言ったの?聞こえなかったわ」と言う。少年は驚いて倒れそうになるが、「それじゃあ、どうして泣いたんだ?」と少女に向って尋ねる。少女は「何となく涙が出ちゃったの。理由なんてないわ」と答える。少年は怒って叫ぼうとしたが、大きなくしゃみをして「このままでは、風邪を引いてしまう」と思う。

シンプルな物語だが、この小説は、何かに挑戦しながらもそれに「挫折」する人間を描いている点で、とても興味深い。
少年は「別れよう」の一言を少女に伝えることを夢見てきたが、実際少女に向ってその言葉を伝えるが、上手く伝わらず、その少年の野望は「挫折」させられてしまうのだ。その少年の「挫折」を象徴するのが、上昇と下降をひたすら繰り返す噴水である。少年が噴水を眺める場面は、次のように語られる。

一見、大噴水は、水の作り成した彫塑(ちょうそ)のように、きちんと身じまいを正して、静止しているかのようである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ馳せ昇ってゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で順々に充たしてゆき、一瞬毎(ごと)に、今欠けたものを補って、たえず同じ充実を保っている。それは結局天の高みで挫折することがわかっているのだが、こんなたえまのない挫折を支えている力の持続は、すばらしい。

三島由紀夫「雨のなかの噴水」(『真夏の死』)

上昇したのち、「挫折」を繰り返し、結局下降する運動性をもつ噴水は、「別れよう」の一言を少女に伝えることを夢見ながら、上手く伝えられない少年を象徴している。
上昇する運動性をもつ噴水とは対照的に、下降の運動性をもつ少女の涙は少年を疲れ果てさせるし、なにより空から降りしきる雨は、少年の噴水への認識を一変させる。雨によって少年の噴水への認識が変わる様子は次のように語られる。

明男の頭から、すぐ目の前の噴水の像は押し拭われた。雨の中の噴水は、何だかつまらない無駄事を繰り返しているようにしか思われなかった。

同上

それでは、少年の噴水への認識が変化することは、何を意味するのだろうか。それは、「別れよう」の一言を言うために、少女と交際し、少女を愛し、あるいは少女を愛したふりをしてきた少年自身の行動自体をむなしいものだと悟ったということではないだろうか。そして、ロマンチックな言い方をすれば、少年は少女への愛に気づいたということではないだろうか。少年が雨のふりしきる噴水の前を立ち去る瞬間は次のように語られる。

そのとき少年は、雨のなかを動いている少女の横顔のかげに、芝生のところどころに小さく物に拘泥(こだわ)ったように咲いている洋紅の杜鵑花(さつき)を見た。

同上

少年が少女の横顔のかげに見た、「杜鵑花(さつき)」は何を意味しているのだろうか。これはおそらく李白の『宣城見杜鵑花』という漢詩をふまえた表現だろう。杜鵑花(とけんか)とは日本でいう、さつきの花ことを指す。李白のこの漢詩は、宣城で杜鵑花を見ると、故郷である蜀で聴いたホトトギスの声を思い出すという、ふるさとへのなつかしさを詠んだ漢詩だ。三島のこの小説においては、一度捨てたはずの少女へのなつかしさを少年は感じ取ったということだろう。
実は少女もしたたかな女性であり、少年の傘にしっかり取りついて、少年から離れようとしないのだ。
つまり、僕から言わせれば、結局は少年と少女は両想いであり、少年が一度別れ話をしてみたいという願望をもつが、その願望が挫かれて、ふたりはおそらく交際を続けるという結末なのだろう。
こじらせた男女という意味では、三島由紀夫の「雨のなかの噴水」という小説は、要するに赤坂アカの『かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~』なのだ!!(こじつけ。)
ぜひ、三島の「雨のなかの噴水」を未読の方はぜひ読んでみて下さい。

それでは、ごきげんよう。

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