宮崎駿『君たちはどう生きるのか』論――悪意に染まる世界の肯定――


問題の所在

宮崎駿監督のアニメ映画『君たちはどう生きるか』は、眞人(まひと)のふたりの母をめぐる映画である。
老婆であるキリコと共に森の中の洋館に足を踏み入れた眞人は、ソファーで横たわるひとりの女性を見つける。アオサギはこの女性が眞人の母親だと言う。眞人は思わずそのソファーで横たわる女性に「母さん!」と呼びかけ、その女性の身体に手を触れる。すると、その女性の身体は液体のようにドロドロに溶けて消えてしまう。
宮崎駿監督の映画において、人間の身体が液体のように溶けた物質として表象されることはよく行われてきた。この現象を中村三春は〈液状化原理〉と呼び、宮崎駿作品を概観しながら次のように指摘する。

『ナウシカ』で未熟なまま動員された巨神兵は、光線を発射した後、泥水状に崩落し、クロトワに「腐ってやがる。早過ぎたんだ」と言われる。〈腐る〉のは老衰・死のイメージであり、〈早過ぎる〉のは未熟・生長のイメージに繋がるはずなのに、それら生命の始点と終点の両極が、この液状化の表象には同居するのである。そしてこのいわば〈液状化原理〉は、『ナウシカ』にのみ見られるわけではない。『もののけ姫』のシシ神は、死を間近にした生物の生命を吸い取る一方で、泉の水で動物の傷を癒し、その足元・足跡からは植物が繁茂する。その夜の姿であるデイダラボッチは通常でもゼリー状の体を持ち、首を奪われ首を探してのたうち回る粘液質の体は、接触する者に死をもたらすとともに、最後には生命を活性化し病を治癒する力を有する。ここに、『千と千尋の神隠し』(二〇〇一)の主な舞台が油屋(湯屋)と川であり、ハクがコハク川の神、オクサレ様が河の神とされてたことを数え入れてもよい。ハクは湯婆(ユバーバ)の手下である式神との戦いで傷ついた龍身をさらすが、その姿は後のハウルの変化を先取りする。凛としたハクと、廃棄物を蓄えヘドロで腐臭を放つオクサレ様とが同じく河(川)の神であるのは、一見、対比的だが、オクサレ様も油屋の薬湯と千の努力によって浄化されると、翁面と透明な身体を持つ清浄な神としてその真の姿を現すのである。
『千と千尋』の湯は、『ハウル』でソフィーがハウルを入浴させる浴槽に繋がり、『もののけ姫』のシシ神の泉に繋がり、遡って『ナウシカ』の腐海にも繋がる。表面は瘴気を発し、蟲以外には人間の生きられない世界である腐海は、その底部には清浄な水の流れを宿していた。マンガ版『ナウシカ』では、腐海も人工物とされ、地球清浄化のテクノロジーとする設定が加えられる一方で、ナウシカを救う王蟲の体液「奬」として、このような治癒する液体の存在がより明確に呈示されていた。水・液体・液状化は、始原と終末、生と死とを同居させる生命的両義性の物質状態である。

中村三春『接続する文芸学 村上春樹・小川洋子・宮崎駿』248頁~249頁

中村三春は、宮崎駿作品における液体化する身体の表象に「生と死を同居させる生命的両義性」を読み取る。だが中村三春のこの指摘だけでは、『君たちはどう生きるか』の森の中の洋館における、液体のように溶けゆく女性の身体表象は捉えきれない。では中村三春の前述の指摘に留保がつくとき、『君たちはどう生きるか』での洋館での液体のように溶けていく女性の身体はどのように考えればいいのだろうか。
まず、先にみた場面における眞人の「母さん!」という台詞には二重の意味が込められている。言うまでもないことだが、この「母さん!」という台詞は、実母であるヒミへの呼びかけとして捉えることができると同時に、義母であるナツコへの呼びかけとしても捉えることができるのだ。とりあえずこの場面における、液体のように溶ける女性の身体にはヒミとナツコというふたりの女性が重ね合わされていると考えることができる。そのうえで『君たちはどう生きるか』をふたりの母をめぐる映画だと捉えたとき、ヒミとナツコというふたりの女性の表象はどのように考えることができるのだろうか。さらに言えば、ヒミとナツコの表象を考えたとき、この映画の本質的な結末はどのように考えればいいのだろうか。

死と不可分なエロス

まず映画の序盤で、疎開してきた眞人を駅で迎えるナツコはきわめて妖艶に描かれている。そして妖艶なナツコの膨らんだお腹を触らされる眞人はとても困惑している。だがそれだけではない。疎開してきた眞人を駅まで迎えにきたナツコは、出征する兵士を見送ることになるのだ。本作のこの冒頭において、ナツコのエロスは死と不可分であることが示されているのだ。ナツコの屋敷についた後も、ナツコは使用人の老婆たちに食料品などを配ってやるのだが、そこの部屋には枕元に薬を置いた病人が寝ている。この部屋のシーンでもナツコという女性と死は近接している。
死と近接している妖艶なナツコは、その意味で『風の谷のナウシカ』のクシャナ殿下や『もののけ姫』のエボシ御前や『風立ちぬ』の菜穂子と類似性をもっているのだ。
重要なのは、妖艶であり死と不可分な女性であるナツコに眞人は惚れているということだ。学校に行った眞人はクラスメイトと喧嘩をしてしまうのだが、その時に眞人はみずから頭を石で打ちつける。学校に行く前日に、妖艶なナツコが父親と口づけを交わしているのを眞人が覗き見るという挿話と照らし合わせれば、眞人がみずから頭を石で打ちつけたのは、彼がナツコの気を引こうとした為だと考えられる。しかも周到なことに、父親とナツコがキスするシーンの直前には、炎に包まれた実母(ヒミ)が眞人に「助けて、助けて」と声をかけるシーンが挿入されている。ここでナツコとヒミがもつエロスと死が不可分であることがはっきりと示されているのだ。
その後ナツコは森の中に姿を消すのだが、ここで謎が残る。なぜ、ナツコは森の中へと入っていったのだろうか。そして、少女のヒミもまた、なぜ大叔父の伝説が残る石塔に入っていったのだろうか。これらの謎に対する答えを用意するには、異世界に冒険する映画後半を分析することを待たねばならない。

恋人=母親という等式

眞人が使用人の老婆であるキリコを連れて、森の中の洋館に足を踏み入れると、異世界に眞人とキリコとアオサギは入り込んでいく。
異世界の冒険が進むと、眞人はヒミという少女と出会う。ヒミに案内されながら産屋の中にいるナツコのもとに眞人はたどり着く。眞人はナツコに一緒に帰ろうと声をかけるのだが、眞人はナツコから「あんたなんか、大嫌いよ!」と拒絶される。さらにナツコから拒絶された眞人はナツコのことを初めて「ナツコかあさん!」と呼ぶのだ。つまり眞人にとってナツコは、恋心を寄せる年上の恋人であり母であるということになる。ここでナツコ=恋人=母親という等式が成り立つのだ。
だがこの映画はこれだけでは終わらない。大叔父と眞人が夢か現実か不明な時空で邂逅した後、産屋(うぶや)に勝手に近づいた眞人とヒミはインコたちに捕らえられる。インコに捕らえられた眞人はアオサギに救出され、眞人とアオサギはインコに捕らえられたヒミのもとに急ぐ。そして、眞人とヒミは長い廊下のような場所で再会することになる。このとき、ヒミは「もう会えないかと思った!」という台詞を口にしながら、眞人と抱き合うのだ。このシーンにおいて、ヒミにとって眞人が想いを寄せる恋人だということがきちんと示されている。結局、大叔父が創造した異世界が崩壊した後、未来では火事で命を落とすことになるヒミを眞人が案じるのだが、そのときヒミは眞人に向かって「お前いい奴だな。お前を生めるなんて素敵じゃないか!」という台詞を口にする。この終盤のシーンでヒミは眞人にとって母であったことがきちんと呈示され、やはりヒミ=恋人=母親という等式が成り立つのだ。
眞人にとってナツコは恋人であり母親である。ヒミにとって眞人とは息子であり恋人なのだ。ナツコとヒミというふたりの女性は、母親と恋人が混じりあうという多義的な表象のされ方をしているのだ。

悪意に染まる世界の肯定

映画の終盤において、眞人は大叔父の後継者になることを拒否する。大叔父が長年かけて手に入れたという悪意に染まっていない十三個の石を受け継ぐことなく、眞人は現実世界に帰る意思を大叔父に伝えるのだ。
その際に眞人は、頭の傷について「この傷は自分でつけました。悪意のしるしです。」と述べる。さらに眞人は「ナツコかあさんと一緒に帰ります」とも発言するのだ。眞人のこの発言において重要なのは、眞人がいうところの「悪意のしるし」とは、ナツコかあさんへの愛情の裏返しであるということだ。なぜなら、眞人はナツコの気を引きたいという感情からみずから頭を傷つけたからだ。本作において、悪意と愛情は等号で結ぶことができるのだ。さらにここで、異世界における若いキリコも悪意の傷を有していたことを想起したい。つまり、眞人やキリコが有する悪意の傷とは、普遍的に人間がもつ「悪意のしるし」であり、愛情のしるしでもあるのだ。
大叔父が長年かけて集めたという悪意に染まっていない十三個の石は、いうなれば悪意も有していなければ、愛情も有していないのである。悪意に染まってない石の積み木によって世界が維持され、巨大な石が象徴的に浮かんだ世界は、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』における月と類似性をもっているのだ。
映画の結末で、インコの王様によって大叔父の世界は破壊される。悪意も愛情もない世界を眞人が守るはずがないのだ。この映画の結末において、眞人は悪意に染まる世界を肯定しているのだ。

残された謎ーー結論に代えて

本節では本稿の結論に代えて、残された謎に言及しておきたい。
まずナツコはなぜ森の中の洋館に立ち入ったのかという謎が残されている。『君たちはどう生きるか』における現実世界を悪意=愛情に染まった世界だとして考えてみよう。ナツコは眞人から向けられた愛情、すなわち性愛に困惑したために大叔父の伝説が残る森の中の洋館に入り込んだのではないだろうか。むろんこれは筆者の推測の域を出ないのだが、眞人がナツコの気を引きたいためにみずから頭の傷をつけたということにナツコは薄々気づいていたのではないだろうか。
ちなみに眞人はナツコをアオサギが誘いこんだのだと考えているようだ。というのも、異世界における若いキリコの家で眞人とアオサギは喧嘩をするのだが、眞人はアオサギがナツコの居場所を知っているのではないかと疑っているからだ。そして、有名なエピメニデスのパラドックになぞらえて眞人とアオサギは口論するのだが、アオサギは本当にナツコの居場所を知らないようである。
筆者が考えるに、ナツコが大叔父の伝説が残る洋館になぜ立ち入ったのかという謎を解くのは、この映画の狙いではないかもしれない。それでも映画の結末において、石塔から現実世界に戻ってきた眞人とナツコはしっかりと手をつないでいるのである。眞人とナツコは、悪意=愛情に染まる世界で親子として生きていくのである。それで、いいではないか!
次に、少女のヒミが大叔父の創造した世界になぜ迷いこんだのか考えたい。眞人とヒミが一緒に食事をするシーンで、ヒミが「私もお母さんがいない」と告白している点に注目しよう。ヒミも母親を亡くし、その悲しみを癒すために大叔父が創造した世界に立ち入ったということが推測できる。また、インコの王様によって、大叔父が創造した世界とともに亡くなると、大叔父の死をヒミは心底から悲しんでいるようである。ヒミは大叔父に大きな恩があったのだ。その恩とは、母親を亡くしたヒミの悲しみを大叔父が癒してくれたという恩である。
この映画の最後に石塔から帰還した眞人は、小さな石を持ち帰る。アオサギが言う通り、しばらくすると眞人は異世界で起きたことを全て忘れるのだろう。そして、眞人にはヒミが残してくれた本、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』だけが残されるというわけだ。こんなに計算されつくした素晴らしい映画はなかなか存在しないと個人的には思う。

少し長くなったが、ここで宮崎駿の『君たちはどう生きるか』論を閉じたいと思う。命あらばまた他日。絶望するな、元気でいこう。それでは失敬。

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