日記⑥――新海誠監督の『すずめの戸締り』を酷評する。

 先日、新海誠監督の『すずめの戸締り』を観た。そこで本作に対する僕なりの感想を書いていきたいと思う。
 この映画のあらすじは実に単純だ。宮崎県に住む、すずめという少女がたまたま要石の役割をになっていたダイジンという猫の封印を解いてしまい、地震を起こすミミズを目覚めさせてしまう。そこで閉じ師である草太と一緒にダイジンのあとを追いかけることになる。ちなみに映画の序盤で草太はダイジンに要石の役割を引き継がされて子供用の椅子に姿を変えられてしまう。つまり、椅子の姿になった草太と一緒に少女のすずめは全国のミミズが発生する扉を閉じていくというロードムービーになっている。そして、東京の皇居の地下にある扉のなかで要石にされてしまった草太を救うために、すずめのかつての故郷である東北地方に車で移動することになる。
 本作では、何度もミミズが発生する扉へとダイジンに導かれて、その扉を鍵を使って閉めるという行動が繰り返される。宮崎、愛媛、神戸、東京、東北地方の五か所でこの行動が繰り返されるのだ。この構成には、視聴者である僕は、さすがに飽きてきてしまった。この扉を閉める行動の反復が、単調で飽きてしまうのだ。
 さらに映画の細部に目を移すと、登場人物たちの奇妙な行動がノイズとなる。例えば、神戸のスナックで手伝っていたときには、ダイジンが路上に姿を現わし、遊園地まで案内するシーンがあるのだが、あまりの物語展開にとって都合の良く椅子である草太も動くし、すずめもスナックを飛び出して遊園地に向う。登場人物の行動があまりに、物語展開にとって都合が良すぎるのだ。これでは物語展開に登場人物たちは奉仕しており、登場人物の内面など存在していないに等しい。
 さらにいえば、本来、地震が生じる原因とは不可視なものであるのにも関わらず、すずめと草太にはミミズを見ることができるという都合の良さは僕にとって大きなノイズになった。
 最後に、東日本大震災を想起させる2011年3月11日という絵日記の日付が提示され、真っ黒に塗りつぶされた絵日記が示される。僕はこの演出は逃げ腰だと思う。正面から東日本大震災を扱うなら、津波にのまれる人々、家屋の下敷きになる人々、被災をして避難所や仮設住宅で生活せざるおえない人々の姿を描くべきだったと強く思う。実際に多くの人々が亡くなった震災を、フィクションに取り入れることの暴力性に対して新海誠自身は、もっと自覚的にあるべきだったと思う。その暴力性に自覚的であるということは、すなわち逃げ腰にならず、震災のありのままの姿を描くことにつながったはずだ。本作の最大の欠点は、震災を単なる観客の催涙的な事象として描き、感動の押し売りの要素として仕立てあげてしまったことだ。
 ここまで書き連ねてきた、『すずめの戸締り』が内包する欠点は、被災者/非被災者に関わらず注意を払わなければならないと思う。

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