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"わかる"と"出来る"は違うのか

こんばんは。
岩田俊太朗の #家トレチャレンジ ご視聴いただきありがとうございます笑


嘘です。
今回は最近動画を取り出した、自分のトレーニングを撮って説明するときに気がついた事について書きたいと思います。


「わかるとできるは違う」

教科教育法で何回も言われた事です。
例としてあげれば、プロスポーツ選手がいきなり体育の教員をやって大成するかどうかって話です。

たしか誰かが、"アスリート枠としてオリンピック選手を教員として採用する"的な事を言ったことから少し講義で話題になったような気がします。


たしかに、スポーツ第一線でやってきた人がいきなり教育現場に出て体育を教えることができるかと言われたら、出来ないと思います。

僕は教育実習を通して感じました。動きを言語化してさらに伝わるようにして話す事ってとても難しいなと思いましたね。そしてそれはもともと出来なかったようなことの方が言語化しやすいなとも思いました。


例えば、サッカーのリフティングを教えろと言われても、小さい時に感覚で覚えて今は何も意識しなくても出来てしまうので、いざ教えてくれと言われるとなかなか難しいです。

逆に僕はもともと倒立が出来なかったところからめちゃくちゃ練習して出来るようになりました。出来るようになったのは高校2年生の頃でした。その頃は「どうやったできるようになるか」を考えながら聞きながら色々試行錯誤して出来るようになったので、なんとなく言語化しやすいです。



皆さんもこういう事ってあるんじゃないですか?

https://twitter.com/sohhhshi/status/1174657896895770624?s=21

そうしくんも教育実習中にこう言っています。
中学生の水泳の授業なんてさぞかし楽しかったでしょうね。



話を戻すと、「わかる」ようになるためには、「出来る」事を目指す事って不可欠だと思うんですよね。

本や文献だけで身につけた言葉って、直接伝えようとしても説得力を持たないと思います。これは教育実習中にめちゃくちゃ指導されました。「お前さんは畳で練習したのかい?」って。江口くん、懐かしいっすね笑

そして今回動画で少し解説なども加えながら発信していますが、動画に文章を加えるときに、「ここはこうやって意識しているよなぁ、こう伝えたらわかりやすいのかなぁ」と考えます。それが"言語化"なのでしょうかね。


まあこれが実際、わかりやすいとか、出来るようになったとか言われているわけではないのでただの自己満足かもしれませんが、やはり言語化は指導する上でとても大事だと思います。


逆に全く出来ない事を、文献だけで勉強して誰かに教えようとしたとします。形や手順は綺麗な言葉で伝えることができるでしょう。

しかし、「こういう時はどうしたらうまくいきますか?」みたいな質問が来たときに対応できないと思います。だって自分が出来る様になろうとしていないから。これは勉強だけで身につくものではありません。実践練習が必須だと思います。


自分ができない状態から、数々の失敗を重ねて出来るようになっていく。その過程の中で「こういう失敗をしたらこう修正したら出来そうだ」と考えることこそが言語化の中で1番重要な過程なのかなと思います。


逆になんでも出来てしまっていた人が指導者になったときに、起きてしまいそうなことは「感覚を掴むまで練習してみろ」という指導です。
これが過剰になると「やる気がないからできないんだ」「上手くなりたくないのか」となっていくのではないかなと思います。

上手くいかない事ってワンポイントのアドバイスで劇的に出来るようになったりしまうよね。そのワンポイントを加えられるかどうかが指導者、教育者としての喜びなのでしょうかね。

僕もそんな"ワンポイント"を加えられるような教育者になれるように頑張りたいです。


「わかる」と「出来る」は違う

これは僕は否定します。


「わかる」為には「出来る」ようにならなければ「わからない」

これが僕の意見です。

皆さんはどう考えますか?

#わかる #出来る #体育 #教育

未来の山形の為に全力を尽くします。 夢の叶え方を教えられるような教育者になります。 よろしければサポートいただけたら嬉しいです!