見出し画像

7/26 自分なんてものはない

自分らしさとか、個性とかという話は、広く生き方の話でも、クリエイティブの職能としてもよく話に出てくる。ただ、「本当の自分」とか「自分らしさ」というときの「自分」というのは何者なのか、ちゃんと考えたことがある人は少ないのかもしれない。
哲学の話なんかではよく出てくるが、そこまで難解な話をしたいわけではない。僕はこのことについて、イギリスの修士制作の際のDissertation(論文)のために結構考えて、それを元にして修士の作品を制作した。
そこで僕がとったスタンスは、「自分なんてものはない」というスタンス。これは哲学者の鷲田清一さんの言葉をベースにしたものだ。そのスタンスにおいては、「自分らしさ」というのは、その人の中にある確固たる何かではなく、他人がその人について話すことの集積であるということになる。

で、最近読んでいたこの本にも、同じような話が出てきた。

外から影響されていない「裸の自分」なんて、あるでしょうか? 私たちはつねに、他者との関係で「そういうノリの人」なのであって、他者から自由な状態なんてあるでしょうか?
どこまで皮を剥いても出てくるのは、他者によって「作られた=構築された」自分であり、いわば、自分はつねに「着衣」なのです。

つまり、自分というものは、中心には何もなく、幾重にも重ねされた「見せかけ」の集積であるということ。これは、僕の自分の理解をさらにわかりやすく説明してくれている。

さて、なんでこんな話をしたのか、というと、これと同じような話をブランディングの話の中で聴いたからだ。
ブランドとは何かを突き詰めていくと、いろいろな言葉やイメージがそのブランドに付随しているけど、その中心は空白だというお話。
そこでは「マトリョーシカのようなイメージ」と説明があったけど、まさにこれ、上の着衣と同じじゃないか!という発見をして、一人興奮してましたw

結局、個性もブランドも自分も、全てはあらゆる付随することの集積で成り立っているのであって、唯一の解となるような「真ん中」はないのである。そう思うと、幾分なんだか気分が楽というか、自分の真ん中を掘っていくような内省の苦しい作業ではなく、自分を少し引いて客観的に見て、ちょこっと剥いてみる、そんなくらいの作業でも意外と「自分らしさ」と言われるようなものは見えてくるのではないか、と思えるのだ。
そして、僕らにとっての個性や自分というのは、後からいくらでも変えうるものである、ということ。そのことにはある時点から別の場所を目指す人にとって、希望の星となるような気がします。

という、ちょっと抽象的な話でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?