見出し画像

哲学者プラトンの傑作「メノン」

こんにちは、ナカムラです。今回は「メノン」という書籍を紹介したいと思います。

本書は、あの「無知の知」で有名なソクラテスが、対話の中で問いを探求していくシリーズもの『対話篇』の一つで、当時における”学習用テキスト”的存在です。

作者はソクラテスの弟子であるプラトン。「アカデメイア」という学園の創始者で、哲学の研究活動だけでなく教育活動にも熱心に取り組んだギリシャを代表する哲学者です。

そんなプラトンの『対話篇』の中でも初期の傑作と言われているのが『メノン』になります。

メノンという野心的で弁の立つ美青年とソクラテスとの対話の中で、「徳(アレテー)は教えられるものか?」「徳とは何か?」という議論が進んでいきます。今回はこの『メノン』の概要と、そこから得られた学びを紹介したいと思います。

1)『メノン』の時代背景と概要

舞台は紀元前400年あたりのギリシャ。この頃、時代的には「実力主義」的な流れが生まれ、他人を支配・統率する政治的な力を求める若者が増えていたそうです。

そんな時代において、若者の支持を集めていたのがソフィストと呼ばれる職業的教育家(お金をもらって教育をする、塾講師みたいな人)で、彼らは弁論術や政治に特化した教育を生業にしていました。

『メノン』では、
・実力主義で成り上がりたい若者たち(メノン含む)
・メノンのような若者に教育を施すソフィスト
・実力主義以前の伝統的な考え方を持っている人たち
・異端者ソクラテス
などの登場人物の関係を前提に対話が進行していくので、その関係性を図にまとめてみました。

画像1

上図を基に『メノン』の流れをざっくりと説明すると、

・ソフィストから「徳は教えられるぜ」と教育されているメノン
・しかし、かの高名なソクラテスは「教えられない」と言ってるらしい
・実際に質問をぶつけてみよう!
・「その前に『そもそも徳とは何か』から始めないとね」と返される
・議論スタート!
・対話の中で問いへの答えが深められていく

という感じです。何となく設定と流れを掴んでいただければ大丈夫です。

2)対話のハイライト

実際のお話としては紆余曲折を経て結論に至るのですが、今回はポイントを絞ってハイライトをお伝えしたいと思います。

問い:徳(アレテー)は教えられるか?
この問いに対して、ソクラテスは「仮説」を用いて探求することをメノンに提案します。実際に用いられたのは、いわゆる「場合分け」です。

ソクラテスは「知識は教えられるものである」という前提に立ち、
(A)徳が知識なら、徳は教えられる。
(B)徳が知識でないなら、徳は教えられない。
という場合分けを示します。

そして、ソクラテスは「徳は知識(のようなもの)である」ということも示します。

これを受けてメノンは、「ということは(A)が成り立つので、徳は教えられるんすね!」と、答えが出たと思いスッキリします。

しかしソクラテスは、「いや、改めてみると『徳は知識』という前提が間違ってるんじゃない?」と言い始め、メノンを混乱させます。ソクラテスは、「教えられるものには必ず教師が存在するが、徳の教師は存在しない。」という説を持ち出し「徳は知識ではないのでは?」と結論付けます。

この辺りでちょっと読むのが疲れてくるので、最終的に各々が導いた結論をまとめます。

●ソクラテスの結論
徳の教師は存在しないので教えられない。しかし、徳は知識のようなものではあるので、学ぶことができる。したがって「徳は教えられないが、『他人から教わる』以外の方法で学ぶことができる。」

●メノンの結論
徳の教師は存在しないことが分かったので「徳は教えられないし、知識でもない。(となるとどうやって徳のある人は生まれるのだろう…?)」

この絶妙な違いが伝わるでしょうか?

ソクラテスは「徳は知識っぽいもの(曖昧)」と捉えているのに対し、メノンは「徳は知識である(厳格)」と固定的な捉え方をしています。ここが二人の結論の分かれ道であり、「徳とは何か?」というソクラテスの問いに戻ってくるわけですね。

問い:徳(アレテー)とは何か?
改めて、前述のソクラテスの結論をもう少し具体的に見ていきます。ギリシャ語には、”知識っぽいもの”を表す言葉がいくつも存在します。

・エピスメーテー(知識)
・フロネーシス(知)
・ヌース(知性・理性)

そして、それぞれ意味するところが絶妙に違います。

・エピスメーテー(知識)…外部から仕入れる、教えられる感が強い
・フロネーシス(知)…実践における「頭の良さ」「思慮深さ」
・ヌース(知性・理性)…認識能力(理解力や洞察力)

以上踏まえて、ソクラテスが言いたかったことは、「徳は知識っぽいものではあるが、教えられる知識(エピスメーテー)ではない。故に教えられないが、学ぶことができる。」ということだったんですね。外から仕入れるものではなく、もっと内的な力、人格や内面と深く結びついているものと捉えていたことがわかります。

これに加えて、「徳って、無条件によいものだよね。悪いものは徳ではないよね。」という前提に則り、「よいものを”よい状態にしているもの”は何か?」という議論が展開されます。

例えば「勇気」。「勇気」は一見よいものですが、正しく使われないとただの「無謀」に終わることもあり、悪いものとなるケースもあります。この場合、「勇気」をよいものとするには、それを正しく使う”知(フロネーシス)”が必要である、とソクラテスは言います。以上から、

よいものを”よい状態にしているもの”は”知(フロネーシス)”である
=よいもの(有益なもの)とは”知(フロネーシス)”である

と結論づけます。

したがって、
(A)徳は無条件によいものである
(B)よいもの(有益なもの)とは”知(フロネーシス)”である
徳とは知(フロネーシス)である
という回答が得られます。

3)学び

学びの内容に入る前に、「哲学からは何を学ぶべきなのか?」ということに触れたいと思います。

山口周さんの著書『武器になる哲学』では、哲学からの学びには
・プロセスからの学び
・アウトプットからの学び
の二種類がある、と説明されています。

中でも、重要なのはプロセスからの学びであり、アウトプットからの学びはあくまでオマケ。問いの立て方や探求の仕方にこそ学びがあり、最終的な結論は(あらゆる学問が遥かに進化している現代を生きる我々にとって)あまり意味を成さない、ということです。

その観点から見た時に、『メノン』から学べることを紹介します。

①思考の補助線
メノンとの対話で議論を深められたポイントは、ソクラテスが提案した「仮説(場合分け)」にあります。これが、「徳は教えられるのか?」という捉えどころのない問題に対する思考の補助線の役割を果たしていたと思います。難問にぶつかった時のアプローチとして参考にしたいと思います。

②原点回帰と言葉への拘り
メノンとソクラテスの結論の分かれ道に「知識の捉え方」がありました。特に確認作業をせず、知識=エピスメーテー(外部から仕入れる類のもの)として進んでいたら、前述の結論は導かれていません。

ソクラテスは一緒に考えている体を装いつつ、メノンを教育するような議論の進め方をとっていて、知識=エピスメーテーの前提で一度結論を出させ、その上で、そもそも前提が間違っているのではないか?という原点回帰をします。ハッとさせる気付きの与え方としてとても有効だと感じます。

また、言葉が表す意味を丁寧に捉えて考えていることが伝わってきます。言葉に拘るというのは、社会生活上とても大切だと思っているのでその点も学びになりました。

③例える力
ソクラテスは、自分の主張をメノンに理解させるために様々な例えを使います。「徳とは何か?」という問いに対し、はじめメノンは「徳とは正義や勇気などのこと」と答えました。ソクラテスは「私が知りたいのは色々な徳ではなく、徳そのものが何かなのだ」ということをメノンに伝えるために、「形とは何か?」という問いを例に出します。

「これに対して『形とは円形や正方形である』と答えるのは間違いだよね?」とした上で、具体的にどんな答えを期待していたかを示します。幾何学においては、「平面」と「立体」というものが存在するということを前置きした上で、次の答えを提示します。

わたしが形とは何であると言うか、もうすでにわかるだろう。というのも、いかなる形をとってみても、”立体がその端で限られているもの”、これが形[平面図形]であるとわたしは言うのだから。そして短くまとめて、「形とは、立体の限界である」と言っておこう。

こうした例えは、相手に真意を伝える上で非常に役に立つと思いましたし、何より最終的にソクラテスが示した「形とは何か?」の答えがあまりにも簡潔かつ明瞭な言葉で感動してしまいました。

4)最後に

本書の末尾に、訳者である渡辺邦夫氏の解説が載っていて、

『メノン』をはじめとする『対話篇』には、プラトンの教育者としての狙いが隠されている。プラトンは、読者に対して「書籍の中の対話に能動的に加わり、自分自身も議論し、理解を深めてもらうこと」を狙っている。

という一節があり、改めて面白い設計の本だな~というのと、自分は割とひょいひょい読み進めてしまったな…と反省しました。

以上、哲学者プラトンの傑作「メノン」でした。最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

ナカムラ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?