世の中は不便に飢えている
先月末から急速に広まっている音声SNS『Clubhouse』。
私も登録して一週間あまり経つけれど、まあまあはまっている。特に深夜はヤバい。夜は芸能界の人たちのルームが多くなり、聞いているとあっという間に2時とかになってしまう。若いころにオールナイトニッポンを聞いていた時の感覚に近い。
「リアタイのみ」の希少性
Clubhouseがなぜこんなに急に広まったのか。解説記事はいろんな人が書いているので省略するけど、理由のひとつがリアルタイム性。今じゃないとだめなのだ。
世の中はあらゆることのデジタル化が進んで便利になった。たとえば、気になるセミナーも現地までいかなくてもオンラインで受講できるし、なんならリアタイできなくてもあとでアーカイブ受講もできる。自分の都合がよいときにいつでも講座が受けられる。便利な世の中になったもんだ。
いっぽうのClubhouseは「いつでも」じゃない。発信側の都合に自分の時間を合わせないといけない。しかも自分の時間を当てていたとしても自分にとって有益な情報がgetできるかどうかはわからない。ルームによっては不毛な雑談を延々聞くことになる可能性だってある。不便なSNSだ。
でもこの不便さがウケている、と私は思う。私たちは便利に慣れすぎて不便に飢えているのだ。
「わかりにくさ」が「ワクワク」に
不便がウケるのは何も今に始まったことじゃない。
私はよくカルディに買い物に行くけれど、はっきり言ってカルディの陳列はお客側にとって親切ではない。「だいたいこの辺にあるだろう」と、今でこそ置き場所の当たりをつけられるけれど、最初のうちはなかなかお目当てのものが見つけられなかった。
カルディのような陳列を不便で使いにくいと感じる人は一定数いるだろう。買うものだけをぱっと買いたい人にとって、どこになにがあるか探しにくいのは不便以外の何物でもない。
でも、このカルディの不便な陳列を楽しめるタイプの人もいる。それもそこそこいると思ってる。「さがす」ことを楽しめる人が。
この手の人は、いろんなものが置いてある中から思わぬものを自分でみつけることができる過程が楽しいのだ。どこになにが置いてあるかを店側が用意しているような便利な店舗での買い物では得られない楽しみである。物がすぐ見つからない「不便さ」を楽しみたいのだ。
カルディ以外にも、たとえばドンキホーテもその手のお店だし、ちょっと意味合いは違うけれどIKEAなんかも「お目当てのものが売っているところにすぐ行きつけない」不便さがある。
便利過ぎると不便が恋しい
仕事柄、「丁寧な暮らし」というワードには興味がある。便利グッズに頼らずにシンプルに暮らしている人のブログや本を読んだりすることもある。
そう、「便利グッズに頼らない」と書いたけれど、丁寧な暮らしとは「人によっては不便な暮らし」なのだ。
掃除機を使わずにほうきとちりとりで掃除をする。掃除機と違ってごみは自動的に集まらない。かがんでちりとりにごみを集めないといけない。
炊飯器を使わずに鍋でご飯を炊く。炊飯器と違って鍋は勝手にご飯を炊いてくれない。
挙げたらきりがないけれど、「便利」が行き過ぎると「不便さ」を求める層が出てくる。
――今書いてて思ったけど、掃除や料理は丁寧な暮らしに寄せられる家事だけど、洗濯を丁寧にするってやっぱり難しいんだな。「靴下を洗濯板を使って手洗いする」みたいな丁寧はあっても、洗濯桶を使って全部手洗いする不便さを選んでいる人を少なくとも私は見たことない。
「不便が売り」なものを便利にする意味
話をClubhouseに戻そう。
この間入ったとあるルームで、リスナーの人が言っていた。
ほかのルームでも配信時間についてスピーカーの人がこう言っていた。
自分もClubhouseを使って発信を試みているので、いろんなルームに入って発信の仕方を参考にさせていただいている。
どういう人に聞いてほしいかによっては曜日や時間帯を変えるのは全然ありだけれど、Clubhouseは配信側に自分の都合を合わせなければいけない不便さがウケていると思うから、便利になったら急速に魅力がなくなってしまうのではないだろうか。余計なお世話だけど。
ほうきで掃除をしている人に「自動でお掃除してくれる機能がついたほうき(こわいけど)」が売り出されたら買うだろうか。
鍋で炊飯している人向けに「自動で電源が入るタイマー付きコンロ(あぶないけど)」が売り出されたら果たして買うだろうか。
きっと買わないだろうなぁ。
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