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服を着替えるように、転職したらいい

瑞々しい気持ちで、
口数もすこし多くなって、
聴き慣れた音楽も、少し違って聴こえたり、
早くこれを着てどこかいきたいな、
とか、そんなことを思ったり、

そんな、新しい服を買った日の帰路が好きだ。

だけれど、その服を着て少しのあいだ過ごしてみると、不思議としっくりこない感じがしてくる。そんなことが儘ある。

鏡の前にもう一度立って、
からだの角度を変えて、
ひと通りクローゼットの服と合わせてみて、
妻に意見を求めて、
あのパンツと合わせたらどうかな、
とか、
その服をなんとか自分に似合っていることにしたいし、なによりこの服を買った自分は間違っていなかったと正当化したい。

だけれど、どこか奥のところに腑に落ちないものがこびりついている。

それでもまだ諦めきれず、無理矢理、もう一度や二度、その服を着て外へ出てみる。でも、やはりなんだか落ち着かなくて、そうすると、世界がよそよそしい感じに思えてさえくる。

いま思えば、僕はそんな時間を過ごさなくてよかった。そして、きっと誰もそんな時間を過ごさなくていい。

このエッセイの題名からも分かる通り、これは比喩である。

僕は、ついこの間新しい会社に転職して、その会社で一ヶ月ほどすると、この会社は自分のいるとこではないとじわじわ気付きはじめ、二ヶ月にもなるとそれが確信にかわり、再び転職活動を再開して、四ヶ月あまり在籍したところで、その会社をやめた。

その会社は、千葉の片田舎で注文住宅をつくっている工務店で、これまで東京の組織で建築設計の仕事をしてきた僕にとっては、いろんな面で魅力的に映った。

だけれど、その会社に所属して、すこし過ごしてみると、その会社の居心地の悪さに気付きはじめた。
それなりにその会社の空気を感じてみないと、その会社が自分にあっているのかどうかわからない。外からみているときには、いろんなバイアスがかかっているし、こちらも、ショッピングしているような浮かれた気分なのだから。

転職というのは、時間も金もかかる。そしてなにより、転職という決断をするまでの過程は、メンタルを削られる。
まずはじめ、その会社への疑いがうまれ、そして、次には自分への疑いがはじまる。
自分のこういうところが悪いんじゃないだろうか。だから…
そんなふうに、その会社にうまくフィットしない自分を責め始めるのだ。

新しい会社はどう?
転職してから数日して、妻にそうきかれた。
だから、
みんないい人だよ。
と答えた。

だけど、ほんとにそうだっただろうか。
といまになって思う。

たぶんその時点で、僕は新しい会社の人たちはみんないい人で、やっぱり自分の選んだ会社は正しかったし、自分はその中でなにも問題なく順調であるというふうにアピールしたかった。
つまり、転職したての人は誰しも
"みんないい人だよ"
そう言いたいのだ。

その会社に転職したのは、子どもが産まれて、少ししてからだった。
新しい環境でまたがんばろうという思いがあったし、同時に家族との時間を大切にしたいという思いもあった。
だから、できるだけ効率的に仕事をして、できるだけ早く家に帰ろうと努めた。
妻は出産後、ひと休みするわけでもなく、慣れない子育てに必死になっている。自分だけ家庭を気にせず思う存分仕事をして、というのは不公平な感じがした。

ある時、妻に言われたのだけど、毎日育児だけをしていると、社会と断絶されて、誰とも話すこともなく、言葉のない世界にいるような気がしてくるのだと。コロナ禍でもあるので、きっとそれは一層だろう。
だから、できるだけ早く帰って、妻となんでもいいから会話をしてあげなければと思った。

だけれど、そういう思いが会社との溝を深めた。

建築設計の仕事は夜遅くまでやるものである。そんなわけのわからない常識がいまだにまかり通るのが、この業界だ。
その会社の人たちも、例に漏れず遅くまで仕事をしていた。
僕のように子育て中の人もいなかった。

リモートとかフレックスとか取り入れないんですか?

そんな中で、そういう発言をした僕はきっと異物にみえただろう。

だけれど、ぼくの方からすれば、新型コロナウイルスの脅威が、いよいよ近づいてきているという恐怖のなかで、こんな狭い空間に押し込まれて、何も言わずに図面を描いているほかの社員が異常にみえた。
うちには、乳児がいて僕がここで感染でもしたら、僕の家族はどうなるのだろうと思うとぞっとした。

だけれど、そんな思いは、
"そんなのはできるわけないんだから"
という、社長がめんどくさそうに放った一言で一蹴された。

そしてその時、それまで迷っていた転職を決意した。

一度転職を決意すると、俯瞰して自分の置かれている組織がどういうものか把握しやすかった。
この会社は、いわばコルセットのようなものだ。
ぼくらは会社がつくった型にはめられる。そして、その型から外れようとすると、苦痛を強いられる。

だけど、その会社の社長は嫌なやつだったかというとそうでもない気がする。それが当たり前で、彼もそういう世界で生きてきたから、そもそもそれを疑えないのだ。
形骸化した朝礼も、よくわからない見て覚えろ式の教育も…
それをなぜといっても話は平行線だろう。

低賃金、長時間労働と引き換えに、自分は社会をデザインしているんだという一粒の虚栄心を終電に揺られながら握りしめる。
そして、それ以外の暮らしは、犠牲にせざるを得ない。
これまでいろんな組織に所属したけれど、建築というのは基本的にそういう古臭い業界だ。

それなら、ぼくはなぜそんな業界にいつまでもいるのか。
それはたぶん僕が、設計者という服を着たかったからだ。

建築の業界で、設計者の中には、謎の序列がある。
新築を一からできて、一人前。リノベーションやインテリアは、設計のうちに入らない。なぜなら、建築は骨格をつくって、インテリアはそれにお化粧をするだけだから。
もっとはっきり言うなら、建築の設計者はインテリアの設計者を下に見ている。

この業界にいて、そういう言葉を何度も聞いてきたから、僕自身もそんな悪しき常識にいつからか染まっていたのだ。
僕はこれまで改修のプロジェクトに関わることが多く、チームのメンバーとしては新築のプロジェクトには関わっていたけれど、自らが主幹として新築を一からやったことがないということに負い目を感じていた。

もう少しやれば、誰もが認める設計者という服を着られる。
だけど、その設計者という服を着たところで自分らしくいられるわけではまったくないし、そもそも、そんな業界の訳のわからない序列は、もうどうでも良くないか。

そう思えてから、視点を少しだけずらしてみると、僕の中で転職の候補にあがる企業も、自分の視野も広がった。
"建築設計"というキーワードでは見つからなかった、着心地の良さそうな企業もいくつか見つかっていった。

だから、冒頭の話に戻るなら、
話は非常にシンプルで、自分の働く会社が自分に合わないのであれぼ、さっさと辞めて、自分に合う会社を探せばいい。
服を着替えるように。
そこには、自分を責める必要も会社を責める必要も全くない。

コルセットのような古臭い会社は脱ぎ捨てられ、そのうち誰も着なくなる。そうなればいい。
そして、新しい考え方の会社が増え、業界はアップデートされる。

ましてや、試用期間という企業側の都合でつくられた謎の期間は、実は僕たちのためにあるのでもあって、少しだけ長く試着室に入ったと思って、その服があなたに合わないのであれば、さっさと売り場へ戻って新しい服を探せばいい。
そこに間違った服を着てしまったという自責は全く必要ないのだから。

そして、新しく探す服はストレッチがきいて、働く人に柔軟に寄り添ってくれるなら尚いい。

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