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追熟の期間

山形から桃を取り寄せて、追熟に何日か要するから、食べ頃になるのを妻は楽しみに待っていたのだけれど、彼女はそれを待たずに病院での時間を過ごすことになった。
彼女と息子は、小児科の狭いひとつのベッドで過ごすらしい。息子のもとに病が突然訪れたのだ。

妻が、楽しみにしていた桃を食べられないのは可哀想だから、食べ頃になった桃を、二日おきに剥いて届ける。タッパーにいれて、保冷剤をいれて。
届けると言っても、コロナ禍による面会規制で彼女と息子には会えないのだけれど。

いつも部屋には息子の声が響いていて、自分は静けさを欲していたけれど、今ぽつんと自分だけが残され静かになった部屋が、嫌によそよそしい。

妻と息子といた日常は急に目の前から無くなると、その記憶のなかの輪郭はすぐに滲んでいく。時間とともに崩れていく形を取り戻そうとするのか、意識のどこかがいつまでも不安そうにどこか掴まるところを探している。

朧げになる記憶、そして、大切なものを忘れていく自分に対して抱く嫌悪。
だけれど、記録しておいた日常は、自分の記憶を保ち、癒してくれるのだ。

思いがけずに、日常を記録すること、その意味を深く考える期間になった。

妻と息子は、もうすぐ家へ戻る予定で、冷蔵庫の中にはまだ食べ頃の桃がひとつある。


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