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中谷美紀と、綺麗な言葉で溢れる世界について_2021.12.18

テレビに映る彼女はただの綺麗な女性で、僕にとってはそれだけだ。それにテレビに映る女性は大抵が綺麗だし、美人というのは顔の均整がとれている、つまり特徴が少ないということだから、それもあって彼女はさらに印象を残さず、ただ僕の脳裏を通り過ぎていく。

だけれど、テレビに映る彼女には、テレビが排除したはずの何か翳りみたいなものがほんの少しその表情のなかに沈んでいた気がして、それがぼくにとっては少しばかりのひっかかりになった。
もちろんそれは取るに足らない引っかかりであったから、一瞬僕の感情のなかに留まったかと思えば、すぐにほかの情報と一緒に流れていった。

中谷美紀が僕の興味の範囲内にスライドしたのは大学の頃だ。ある時期、紀行文を読むのが好きになって、作者を問わず手当たり次第買っては読んでいた。その中に彼女の書いた『インド旅行記』があった。
テレビに映る女性は、どうせニューヨークかパリにしか行かないというのがあったから、インドというイメージが再びひっかかりとなって手に取ったのだ。

僕に彼女への興味を持たせたのは、テレビでは排除され、だけれどこの本では排除されなかった彼女のある部分だ。それは、旅の中で感じる彼女の苛立ちであり、彼女の傲慢さであって、それらは所謂ネガティブの側に分類されるであろう感情や思考である。
それらの要素は、これまで彼女がカメラで撮られてから、僕が眺めるテレビの画面に至るまでに、いくつのもフィルターにかけられ排除されてきたものであったけれど、この本ではそれが生々しく文章のなかに生きているのに僕の興味は動いたのだ。

さて、最近よく思うのだけど、ネガティブな感情は人に晒すべきではないのだろうか。
なにかを見たときや聞いた時に、ネガティブな感情を抱いたとしたら、それを表現するのはいけない行為だろうか。

SNSの世界は綺麗な言葉で溢れている。そして、それは僕にそこでネガティブな感情を表現するのはNGであることを強要する。
それとは反対にたまに見かけるネガティブな発言の元をみれば、それは大抵が身バレを想定していないアカウントである。そうすると、身バレを承知でネガティブな感情をさらけ出すのはいまやラッパーの特権のようになってしまっている。あるいは、本音を語るのは小説や映画の登場人物のセリフの中だけに許される行為なのだろうか。

僕は、中谷美紀という人が『インド旅行記』でさらけ出したネガティブな感情に、むしろ誠実さを感じて興味をもった僕は、そうするとこれから人に興味を持つきっかけを失っていくことになるのだろうか。

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