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価値観までは訳せない
ドイツ語を話すポーランド人と英語を話すイタリア人の間で通訳をするはめになったのは、21歳の時だ。
ドイツ語の語彙不足は大きな制約だったが、それ以上に問題だったのは、この2人があらゆる面で《違う》人だったことだ。
3人でウィーンの街を歩いた夏の1日は、綱渡りのようだった。
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学園祭で自費出版小説集が完売したので、その金でパリ行き南回り往復チケットに加えてユーレイルパスとトーマスクック時刻表を買い、バックパッカーに寝袋と登山ザックを縛り付けて、旅に出た。
EU発足前のフランスでは英語がほとんど機能しなかったので、スイス経由でオーストリアに入り、ウィーンにたどり着いた。
第2外国語のドイツ語はそこそこ通じたので、1週間あまり、当地のユースホステルに滞在した。
この宿で、ポーランド人の爺さんと知り合った。
70代初めぐらいか、第二次大戦中に駐留していたとのことで、ウィーンには詳しかった。その時期、ポーランドはナチス・ドイツとソ連によって分割され、国として消滅していたので、ドイツ兵としての駐留だろう。
そのため彼は、英語は通じなかったが、流ちょうなドイツ語を話した。
当時のポーランドはワルシャワ条約側陣営だったから、中立国とはいえ、オーストリアへの旅行はたいへんだったようだ。
外貨の持ち出しが厳しく制限されている、と言い、自身が極貧生活をしているだけでなく、政治犯っぽい若者を《匿って》いた。
宿泊費を支払っていないこの若者は、夜になると、よりプライバシーの高い女性ゾーンに移動して、ポーランド人女性のベッドに潜り込んでいた。
その前年、教養部でポーランド語のゼミを受講していた僕は、この爺さんと話すようになった。彼はカトリック教徒で、もちろん酒は飲まず、非常に《堅い》人物だった。
「今日は、二人でウィーンを遠足しよう」
ある日、爺さんに誘われ、街に出た。
駅前を歩いていた僕たちは、三つ揃いのスーツに派手なネクタイ姿の紳士に、英語で声をかけられた。
「Are you familiar with this city? 」
40代半ばぐらいだろうか。
「僕はこの町に来たばかりで、まったくのstrangerだ。でも、この人は詳しいよ。何か聞きたいことがあれば、ドイツ語に通訳するけど」
そう答えた。
紳士は、
「私はイタリア人で、ビジネスでこの町に来た。今日は休日なのでぶらぶら歩いてる」
と言い、辺りを見渡すと、近くのカフェでお茶でも飲まないか、私がおごるよ、と言った。
貧しいポーランド爺さん&日本人学生コンビは、カフェなんて入ったことはなかったので、喜んで好意に甘えた。イタリアおじさんは、自分の仕事の話をしたり、爺さんに国の事情を尋ねたりした。
僕のドイツ語のボキャブラリーはかなり乏しかったが、なんとか通訳の役目を果たそうと努力した。たぶん、60%ぐらいは通じた、と思う。
そして、イタリアおじさんはようやく本題に入った。
つまり、次のように尋ねたのだ──英語で。
「この町で、女性と知り合える場所はどこにあるか、知っていますか?」
え、と聞き返すと、もう一度繰り返した後で、
「その土地のことを知るためには、当地の女性と仲良くなるのが一番だからね」
とすまして言った。
──オーストリアでは売春が合法化されている。
出張先では、いつもそうして《情報収集》するのだろう。
僕は爺さんを見た。
彼はもちろん、ドイツ語に訳されるのを待っていた。
(うーん)
少し迷ったが、できるだけ忠実に訳し始めた僕のドイツ語は、ポーランド爺さんの大げさなジェスチャーと大声で遮られた。
「何言ってるんだ! そんな場所は、わしゃ知らん!」
通訳をした人なら経験があるだろう、こういう場合、矢面に立つのは元の言語の話者ではなく、訳者である──不条理きわまりないが。
しかし、僕に対する爺さんの表情を見て、イタリアおじさんも察した。
「He doesn’t know」
と私が《訳す》と、そうか、と肩をすくめて引き下がり、
「じゃ、どこか楽しめるところはないか、聞いてくれないか?」
と尋ねた。
後から思えば、《楽しめる》とは、きわめて《個別の価値観》依存が強い言葉である。
しかし、とにかく僕は、限られたドイツ語語彙の中で、ただただ正確な訳を心掛けた。
爺さんは、それなら、と大観覧車で知られるウィーン最大の遊園地、プラーター公園に案内した。
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イタリアおじさんが、その1日を本当に楽しんだのかどうかはわからない。でも、彼は何か途中で、少し、諦めたようにも見えた。
少し、と書いたのは、彼はそれでも時々、《女性と知り合える場所》に関して、様々な《言い換え》を使って蒸し返し、情報を得ようとしたからだ。
ポーランド爺さんは、僕が訳すたびに少々不機嫌になったが、遠足のスポンサーに対して声を荒げるようなことはなくなった。
イタリアおじさんも、この《堅物》とは早々に縁を切り、《歓楽スポット》再探索を始めることもできたはずだが、《楽しめる場所》を尋ねた行きがかり上、1日を共にしたのだろう。
イタリアおじさんは社会主義国ポーランドの平均年収なども質問し、その低さに驚いていたが、その反応は当然、爺さんを不機嫌にした。
質問の中には社会主義国の売春事情に関するものなどもあり、僕は意図的にはぐらかしたりもした。
その日の夕暮れになって、ようやく、
「女性のいる、バーの多い地区を知っているか?」
という婉曲な質問に《情報提供》をして、ポーランド爺さんはイタリアおじさんと和やかに別れた。
ユースホステルに帰った僕は、どっと疲れが出て二段ベッドに倒れ込み、その日から二日間、熱を出した。
*このエッセイは、別アカウントで書いた記事を再掲したものです。
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