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買い物カゴと町内市場の時代

父が単身赴任、母は教師としてフルタイムで働き、祖母が高齢だったため、小学校低学年の頃からたびたび町内の市場へ買い物のお使いをさせられました。子供には大きなプラスチック・ストローで編んだ『買い物カゴ』を下げ、新聞広告の裏などに鉛筆で走り書きされた『リスト』に従って、野菜、肉、乾物などを買っていく。
この頃から『人間観察』が好きだったのでお使い自体はそれほど嫌ではなかったものの、この、いかにも『主婦用』の大きな買い物カゴを下げて歩くのが恥ずかしかった
野菜は全てむき出しで、肉は竹の皮に包まれ、すべてそのまま買い物カゴに放り込む。
生魚だけはやはり『目利き』が必要で、特に父が帰って来る日などに母が直接買いに行っていた記憶があります。
魚屋さんはお客1軒1軒の家族構成、経済的状況や好みなどを知り尽くしており、
「その家に合った魚を勧めてくる」
と感心していました。

その頃はどの町内(10数ブロックほどで構成される地域)にも屋根のある市場があり、八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、菓子屋、花屋など、ひと通り揃っていました。
どの家からもほぼ Walking distance にあるので、老人家庭にも優しいシステムでしたね。

豆腐屋さんだけは『製造工程』が必要なため、市場の中ではなく、独立して店舗を構えており、お使いも、鍋を持って別途行かされました。
豆腐を入れた鍋を両手で持ち、躓いたりしないように細心の注意を持って歩かなければならなかった。

今や近隣でこのような『市場』はすべて消え去り、車や自転車で大手スーパーに出かけるシステムとなりました。
老人や足の不自由な人にとっては辛い変化でしょう。
「コンビニがあるんじゃないの?」
でも、生の魚や新鮮野菜はありません。
さらに、かつての市場にあり、コンビニにはないのが『会話』です。
コンビニだけでなく、スーパーでも、店員と客の会話も、客どうしの会話もなくなりましたね。
市場から歯が抜けるように店が閉店し、ついにデイサービスに替わった後、最後まで残っていた花屋さんが言っていました。
「お客が減っただけじゃなくて、たまに来るお客も、こちらの目を見なくなったの! 見ないまま買っていくのよ!」

そんなことを想い出したのは、リタイアして町内会の仕事をすることになり、他の役員さんとの昔話に、遠い『買い物カゴと町内市場の時代』がよみがえってきたからです。

3月末で終了した『ブギウギ』効果で、
「『東京ブギ』がまた流行るんじゃないの?」
と同居人が言います。

── そうかもしれない。
でも、個人的に好きなのは、歌詞がコミカルで、癖の強い関西弁が、
「わて、ほんまによう言わんわ!」
を繰り返す、『買い物ブギ』です。朝ドラの中のステージも(ダンスを含め)圧巻でした:

この曲は、元祖・笠置シズ子版も記憶にあり、Youtubeで確認してみると、こちらはまさに《昭和の買い物風景@町内市場》です:

この《元祖版》を聴いて、気付いたことがあります:

笠置シズ子が、
「おっさん、おっさん」
と大声で連呼するのに店主は客に気付かず、最後に、
「わしゃつんぼで聞こえまへん」
と応じるのだが、現代NHKバージョンではここが、
「わしゃ聞こえまへん」
に変わっている。

さらに、この後、笠置シズ子は向かいの店のおばあさんに書き付けを渡して買い物を続けようとするが、
「これまためくらで読めません」
と歌う。
こちらに至っては、NHKバージョンではパラグラフごと全て削除されている。

もちろん、いずれも障碍者差別用語を含んでいるからですが、調べてみると『歌詞修正』はNHKだからというわけではなく、ある時期(1980年頃?)以降の『買い物ブギ』歌詞は(復刻版も含め)すべて修正されているようです。

── そこまで気にする必要があるか?
という意見もあるでしょうが、やはり、『コミカル』というのは『からかい』の要素も含まれており、傷つく人がいます。
小説中の言葉については、読まなければアタマの中に入って来ませんが、歌 ── 特にヒットソングは、好むと好まざるとに関わらず入って来ます。
(本題とは関係ないが、私の母は聾学校の国語教師で、教え子の訪問を受けることがった)

まあしかし、これら『差別用語』を含めて『時代』と言えないこともない。
あえてここには挙げませんが、1970年頃までは、日常会話の中にそうした言葉は『ダダ洩れ』でした。

もう1点、興味深かったのは、長い『買い物リスト』の中に『仁丹』が入っていることです。
(「ヤヤコシ、ヤヤコシ、…」連呼の直前)

仁丹! 懐かしい! ナポレオンのようなオッサン!

子供の頃、仁丹を口に入れる大人をよく見かけましたね。
あれは一体、何だったんだろう?
「煙草を吸う人が多かったから、口臭予防じゃない?」
同居人は言いますが、吸わない女性も口に含んでいたように思う。
調べてみると、仁丹はかつて『消化と毒消し』を謳っており、大正期には、コレラに対しての予防を前面に打ち出していたそうです。コレラは当時、猛威を振るっており、このキャッチコピーは効いたでしょうね。

……そういえば、我が家にも『三河屋さんのサブちゃん』のようなオジサンが裏口から手帳片手に『御用聞き』に来たり、お酒や味噌を配達したりしていました。
彼がかなりの年齢になった後も、母や祖母は『小僧さん』と呼んでいましたが、あれも今なら『イエローカード』が出るかもしれませんね。

── 昭和は遠くなりにけり

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