初詣は氏神様
子供の頃は両親に連れられてメジャーな神社に初詣に行ったものです。親の指導のもとに手を合わせ、賽銭を投げて願い事をした。
しかし、《自分のアタマ》で物事を考えるようになると、そもそも何百万もの人が参詣する巨大神社の神サマに、ひとりひとりの祈願内容を整理・精査した上全て叶えるなんていうアクロバット、そもそも無理なことではないか、と思い始めた。
成人してからは、NHKの「ゆく年くる年」が始まる頃に歩き始め、近くの神社に行く。
高いクスノキが見えるころには既に「お焚き上げ」の匂いがただよってくる。
境内のほぼ中央、本殿の5メートルほど前に火が焚かれ、参拝の人が行列、といっても十数人ほどが列を作り、順に参詣をする。その半数ほどがお神酒の列に加わり、一杯いただいては百円玉を置いて下がる。
ここ数年、祈願の内容は変わっていない。
ということは、未だ叶えられてはいない、とも言える。
でもどうだろう、この神社の参詣者は三が日でせいぜい200ー300人程度ではないか。それくらいはここの神サマもメモリーに収め、成就に向けて色々考えてくれるのではないか?
私が以前働いていた企業では、正月明けに経営と労組の代表者が伊勢神宮に参詣する慣習があった。
しかし、時間の損失や事故のリスクを考慮に入れると、きわめて馬鹿げた「しきたり」だったように思う。
「地産地消」じゃないが、事業所が位置する氏神様に詣でるのが一番賢いのではないだろうか。
伊勢神宮に奉納する金額を近隣の神社に納めれば、ローカル神サマの目玉飛び出し、わが社の安全安泰を第一に考えてくれるに違いない。
伊勢神宮の場合は、いくら出そうが、もっと大きな金額を積む競合企業の祈願に耳を傾けるのが《人情(いや神情)》というものだろう。
というわけで、私の初詣はこのところ、ずっと近くの氏神さまです。今年も、昨年とほとんど同じ祈願をした。
祈願成就のためにちゃんと努力しますように、とそこまで祈ってから、いや、さすがにそれは、祈願の範疇ではないな、
と片目をあけるのでした。