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天の「やめとけ」啓示でその選択肢を捨てた(旧稿アレンジ)

大学4年の冬に、彼女の実家に行き、卒業と同時に結婚する旨を伝えた。ただ、卒業と同時に就職するわけではなく、大学院に進学する予定と聞いて、1年前に故郷に戻り教職についたばかりの娘が安定安全を捨て無職の男と東京で暮らす将来に、彼女の両親は暗雲を見たのか、比喩でなく眉をひそめた。
彼らを安心させるため、私は既に公務員試験に合格しており、その資格は3年間有効であるから、修士課程卒業後に国立研究所に就職するつもりである、ととりあえずの計画を告げた。

それから2年近くが経ち、私は予定通り、国立研究所の面接に臨むことになった。
どういう伝手つてだったのかははっきりしないが、ある人(Aさん、としよう)を仲介して国立研究所のそこそこエライ人と正式前の事前面接を行うことになった。

当日、決められた時間の少し前にAさんのオフィスを尋ねた。
そこは20畳ほどもあるだだっ広い実験室で、その片隅に彼の机がただひとつあった。
ノックをして部屋に入ると、ジジジジ―ッと音がする。
薄暗いその部屋にいるのは、ひとりの中年男性で、来客 ── つまり私 ── の方を振り返るでもなく、電気シェーバーを頬にあてていた。
(ひょっとして、気付いていないのかな?)
そう思い、側に近づき、
「あの……」
話しかけようとした。
すると、彼(後でAさん自身だと判明)は、片方の手の平を立て、《待て》のポーズをしながら、どうやらとても重要な儀式らしい《ヒゲソリ》を中断することはなかった。

早朝、というわけでもなく、おそらくは9時か10時に近かったと思う。
私は傍らでじっと待った ── 面接仲介者の傍らで。
彼は数分かけて、頬、鼻下、あご、最後に喉までしっかり剃り終え、シェーバーのスイッチを切った。
(……ふう)
私は、ここで《安堵》の息をついたはず。
「あの……、今日面接に来た ──」
そこでA氏は再び片方の手の平をたてて、私を遮った。
そして、外刃の付いた枠を外し、ゴミ箱にかぶさるようにして、小さなブラシで内刃についた「ヒゲ屑」を落とし始めた
そして、初めて私の方を振り返って言った。
「これねえ、毎日ちゃんと手入れしないと、錆びたりすることもあるんだよ」
「……はあ」
力なく相槌を打つ客をさらに待たせ、ひょっとしたら彼にとってはヒゲを剃ること自体より重要な儀式なのかもしれない《清掃作業》を終えた後、A氏は内刃にオイルを付け、外刃をしっかりとはめ、さらにシェーバーを黒いケースに納めた。
ケースを引き出しに納めたタイミングで、柏手を打つんじゃないか、とほとんど身構えた。

── そして、A氏は初めて全身をこちらに向けた。
まだ坐った姿勢のまま、
「── で、なに?」
……全身から力が抜けていった。

《エライ人》との面接は特に可もなく不可もなく、無難に行われた。
「君の志望はわかった。試験の合格順位も上の方だから、特に問題なかろう。あとは正規のルートで本面接を申し込みなさい」

ところが、その3日ほど後のこと、A氏から電話を受けた。
くだんの《エライ人》が、突然お亡くなりになった、というのだ。
「どうする? 後任の《エライ人》が決まったら、再度面接するかい?」

その時、《天》が、
➀ 電気シェーバー
と、
➁ 《エライ人》の突然死を使って、
私の人生に、何か重要な《啓示》を与えているような気がした。

「……少し考えさせてください」
電話で答えた私は、結局、こちらからA氏に再び連絡することはなく、公務員になる道を諦めた。

その後、民間企業の採用面接を受け、就職することになり、2年間の大学院生活を経済的・精神的に支えてくれた妻と共に引っ越した。
経済原理に基づいて判断する企業の考え方は、自分に合っていたようにも思う。

仕事で国立研究所の人と話をしたりする度に、
(……あの選択は正しかったろうか?)
と思うことはある。
その度に、想い出すのは、
➀ 電気シェーバーと、
➁ 《エライ人》の突然死。

ある選択が正しかったかどうかは、結局誰にもわからないが、選択の理由を認識し、記憶しておくことは、その後の人生にとって大事なことではないかな、と思う。

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