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愛知に行きます

中からは、分からないのだ。
ずっと中にいるから、彼らは知らないのだ。気づいていないのだ。
そこがどれだけ閉ざされた場所なのか。
そこがどれほど恐ろしくクローズドなコミュニティであるかは、
中にいる人には自覚する術がないのだ。
なーんか地元に帰ったみたい。
美紀は思った。
中学時代から何ひとつ変わらない人間関係の、物憂い感じ。
そこに安住する人たちの狭すぎる行動範囲と行動様式と、
親をトレースしたみたいな再生産ぶり。
驚くほど保守的な思考。飛び交う噂話、
何十年も時間が止まっている暮らし。
同じ土地に人が住み着くことで生まれる、
どうしようもない閉塞感と、まったりした居心地の良さ。
ただその場所が、田舎か都会かの違いなだけで、
根本的には同じことなのかもしれない。
いきおい美紀は思った。
自分は、彼らの世界からあまりにも遠い、辺鄙な場所に生まれ、
ただわけも分からず上京してきた、
愚かでなにも持たない、まったくの部外者なのだ。
でもそれって、なんて自由なことなんだろう。
            ―――『あのこは貴族』より


▼▼▼愛知に行きます▼▼▼


今日から愛知に行く。
最後に行ったのはたしか2021年6月で、
『もしイエス様が市長だったら』の最終的な打ち合わせを、
デザイナーの方と春日井というところでした。
印刷の紙質だとか最終校正だとか、
どうしてもオンラインではできない部分を詰めるために愛知に行った。
その時は多分緊急事態宣言は出ていなかったが、
移動するのはあまり推奨されず、
ましてや東京の人間はあまり地方に行きづらい雰囲気があった。
ひっそりと愛知に行き、
必要最低限の人と会い、
必要最低限の用事を済ませ、
ひっそりとした時間を過ごした。

あのときも6月だったので雨が降っていた。
今回もすでに梅雨入りしており、
向こうでの快晴は期待できない。
今気付いたが、6月はあまり移動や観光に適してない。

愛知は今も「実家」なので、
帰省という意味もある。
「陣内俊を支える会」を置かせてもらっていたICBCは、
今も僕のホームだ。
この15年でずいぶんメンバーも入れ替わったけれど、
行く度に懐かしい顔ぶれに会っては、
「なんか落ち着くんだよなぁ」と思っている。


▼▼▼のんほい・じゃんだらりん▼▼▼


東京に生活していると、
「東京圏」を抜け出した時に、
時間の進み方が変わるのを体感する。
僕の場合、豊橋駅に降り立った時、
その時計の針の進み方に、
自分を慣らしていくのが心地よい。
東京では盆と正月ぐらいにしか観ない、
「駅を歩く人がたったの数人」という状況や、
人が歩くペースのゆっくりさや、
東京には珍しい、そこかしこで「立ち話」してる人を観察する。

駅に降り立つ鳩の顔まで違う気がしている。
おそらく東京の鳩は標準語を喋り互いに敵対的で、
相手に弱みを見せないように気をはっている。
だから、鳩胸になるのだ(ウソ)。
豊橋の鳩は東京の鳩と違い、
互いに三河弁で冗談を言い合っている。
「今日はパンくず少ないのん」
「ほだのん」
「でも俺最近太り気味じゃんねー」
「ワシもじゃんねー」
「ちょっとダイエットした方が良いだらー」
「ほだのん」
「だらー」

っつって。

その「のんほい・じゃんだらりんリズム」に、
自分をアジャストさせるのに30分ぐらいかかる。
自分の肺胞の隅々にまで満ちた「東京の空気」を、
全部吐き出して、それを「東三河の空気」に置換するのに、
30分ぐらいかかるのだ。

僕は蒲郡で産湯につかっているから、
もともと身体が東三河仕様にできているはずで、
だから東京との落差はすぐに埋まる。
デフォルトが東京ではなく、
デフォルトが東三河なのだ。

東三河に24時間いると、
だんだん口が半開きになってきて、
歩くペースも遅くなってきて、
なんとなくおおらかな気持ちになる。
細かいことは気にしない。
「悪目立ちしないように気をつけつつ、
埋もれぬように個性を主張する」
という東京の規範とかどうでも良い。
みんなと一緒で良い。
ぼけーっと生きていけば良い。
三河湾の穏やかな水面のように、
人生をたゆたえば良い。
行き当たりばったり、上等。
世の中、そんなに悪い人はいない。
渡る世間に鬼はなし。
なんとかなる。
そうだらー。
そうだのん。

きっとこの「口が半開きの自分」が本来の自分なのだ。
周囲に張り詰めた緊張感を跳ね返すように、
なるべく隙が無いように歩き、立ち回り、話し、応答する。
この東京シティスタンダードは、
本来の自分ではない。

口が半開きの隙だらけの自分は、
東三河に半年も生活すれば、
だんだん革靴とか履かなくなるだろうな。
そもそも自動車とスーパーと職場の三角生活だから、
靴なんてものは必要ない。
そうだ、クロックスってものが世の中にはある。
別に自分のファッションなんて車の窓越しにしか見えない。
誰も見てないなら、家にいる時と外にいるときで、
いちいち着替えるのめんどくせーな。
そうだ、スウェットというものが世の中にはある。
人間関係は基本的に数種類の人々を往復運動するだけなので、
だんだんみんな家族みたいになってくる。
マキタスポーツさんがラジオで言ってたけど、
「田舎の人は自己紹介しない」のだ。
スーパーハイコンテキストなのだ。
あと、筋トレとか意識高い系みたいでハズいな。
やめよう。
それから、飯が全部、安くて美味いな。
食おう。
帰ったら家でテレビ見よう。
中京テレビ、落ち着くな。
だんだん中年体型になる。
(トヨタの!!!!)ファミリーカーに乗って、
日曜日にはコメダの駐車場に横付けし、
家族でモーニングをついばみながら、
お父さんはスポーツ紙(もちろん中日スポーツ!!!!)、
お母さんは写真週刊誌、
子どもたちはコミック雑誌をそれぞれ読み、
「昨日中日また負けたじゃんねー」
「へー」
「近所の●●さん、髪切った?」
「ワンピース新刊出るよ、お姉ちゃん」
「え、あの俳優不倫してたの!」
「中日、今年絶対Bグループだらー」
「ほだねー」
「え、さっきなんて言った?」

という、会話として成立しているのかしていないのか分からない、
「家族ツイート」を交わし、
11時半頃にまたトヨタの(!!!!)ファミリーカーに乗り込み、
ある時は家に帰り、ある時は大型ショッピングモールに向かう。

もちろんその間、
僕の口はずっと半開きだ。
そういう、どこに出しても恥ずかしくない、
東三河の中年に、僕は本当はなっているはずだったのだ。
こっちが本当の姿なのだ。

今東京で毎日筋トレし、
一応時々革靴とかを履き、
なるべく恥ずかしくないように隙の無い格好をして出かけ、
公共交通機関を駆使して東京という魔境を、
戦闘モードでサバイブしている僕は、
多分壮大な「仮の姿」だ。


▼▼▼ミズクラゲの苦労▼▼▼


三河湾に浮かぶミズクラゲのように、
僕は水面をたゆたい、
温暖な気候に甘やかされ、
ふやけてふやけて、
クロックスと上下スウェットのオヤジになっていたはずなのだ。
血管には蒲郡みかんのエキスが流れているはずなのだ。
どこかで運命のボタンは掛け違えられたのだ。

豊橋駅に降り立つと、
「僕ことミズクラゲは今、
 どこで、何をしているだろう」
と夢想するのがやめられない。

「そういう気持ちって分かる」
っていう人が、
どれぐらいいるんだろう。
東京に住んでいる人の8割ぐらいが、
東京の外が出身地なわけで、
人それぞれの「ミズクラゲ」があったりするんだろうか。

たとえば鹿児島から上京した人は、
鹿児島に帰省するたびに、
「桜島の灰にまみれたおいどん」を、
オルターエゴみたいに探したりするんだろうか。
北海道から上京した人は、
帰省するたびに、
「スタッドレスタイヤ履いてびっくりドンキーに横付けする、
 北海道で家庭を築いていたバージョンの自分」
を、どこかに探したりするんだろうか。
山崎まさよしの「One more time, One more chance」みたいに。

かつて、僕の父の管轄する水島コンビナートの製油所の、
石油タンクが事故を起こした。
幸運にも死者は出なかったが、
全国ニュースにもなり、
父はテレビの会見や新聞対応にも追われた。
こういった不慮の事故はいつだって起きる可能性があるわけで、
誰が悪いというわけでもないけれど、
父は行きがかり上、責任者を追求される側になった。
眠れぬ夜が続いたそうだ。
たしか僕が小学校6年生だか中学1年生だかのころだった。

大学生になって、父がそのときの経験を話してくれた。
あのとき、会社を辞めて豊橋に帰り、
どこかの工務店にでも引き取ってもらって、
新しい人生を始めようかと本気で考えていたそうだ。
そのシナリオだと僕は大学に行けていないかもしれないし、
だとすると僕の人生もまた違ったものになっただろう。

父は仕事を楽しんでいたし、
人生を楽しむポジティブで明るい人だったが、
当時は会社がまさに「針のむしろ」で、
豊橋に帰ろうか、と毎日考えていた、
というのを聞いて僕はぐっと来た。
そうやって生活を支えてくれたから、
僕は大学に行くことができた。
父はそういう意味で英雄なのだ。
陣内学は僕の永遠のヒーローだ。

さて。

45歳になった今、
僕もあの頃の父の気持ちが少しだけ分かる。
時々、東三河に帰って静かに暮らしたら……
と夢想することがある。
弱気になるとそんな気持ちが芽を出す。
東三河の生活は、それはそれで過酷なのだろう。
ただ、その過酷のあり方が、
東京と東三河では、とても違うのだ。

父だって豊橋の工務店の仕事が楽だと舐めていたわけではないだろう。
でも、一部上場企業で戦うのと、
地元企業で戦うのとは、
やはり消耗の仕方が違うのだ。

でも、最近思うのだ。

僕たちには「苦労の総量」が、
あらかじめ決められているのではないか、と。
きっとクロックスサンダル、口半開きの、
僕こと三河湾ミズクラゲも、
それはそれでとても大変な毎日を送ることになるのだ。
東京で大変なのと等量の苦労がそこにはあるのだ。

僕らが選べるのは苦労の「量」ではなく、
苦労の「種類」なのではないかと僕は思う。

それならば「苦労するに値する苦労」を苦労したい。
苦しむに値する苦しみを苦しみたい。
自分の保身のために苦しむより、
他者の幸せのために苦しみたい。
組織の自己防衛本能に加担する苦しみより、
個人として人生を引き受けるという苦しみを苦しみたい。
大きなものにしがみつくという苦しみより、
孤独な挑戦した夜の底知れぬ不安を苦しみたい。
そう強く願う。
その選択の積み重ねが、
今の僕の東京でフリーランス、
NGOスタッフ、教会の協力牧師、
という意味不明な三足のわらじなのだろう。

僕たちは、
「どんな苦労の種類を選ぶか」で、
人生をつくりあげていく。
それが願わくば、
神の召しを果たすための、
神の国を建設するための苦労であって欲しい。
それだけは、
この15年間、一貫して強く願ってきたことだ。

それだけは胸を張れる。

僕こと東三河ミズクラゲは、
流れ流れて今は東京にいるわけだが、
神の前に顔向けできる生き方をしてきたか、
と思いながら今日も過ごしている。
死ぬその日まで胸をはって「YES」と答えたい。
それだけが僕の人生のゆるぎない指針である。

おわり。


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参考文献および資料
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『あのこは貴族』山内マリコ


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