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ひとりのために書く


ものを書くのは、金を稼ぐためでも、有名になるためでも、
もてるためでも、セックスの相手を見つけるためでも、
友人を作るためでもない。
一言で言うなら、読む者の人生を豊かにし、
同時に書く者の人生も豊かにするためだ。
―――――スティーブン・キング『書くことについて』



▼▼▼書く、という技能▼▼▼

メルマガのシーズン4を始めて、
2ヶ月半が経過した。
10本ぐらい書いた。
毎回2万字近く書いている。

書くというのは結構骨の折れる作業だ。

何かを執筆したことのある人は分かると思うし、
仕事として継続して執筆している人は、
分かりすぎるほど分かると思う。

脳みそを引きちぎるほど絞る感覚がある。

でも、これは脳みその筋トレのようなもので、
サボっているとついぞ、人間は何も書けなくなる。

LINEスタンプのコミュニケーションに慣れた大学生は、
もはやEメールレベルの「作文」ができなくなっている、
と大学で教える佐藤優さんは嘆いていた。
人に対して意味の通るSVOCの文章が書けなくなるのだ。
短い日本語の文章を読んでも意味が把握できないから、
数学の公式が使えないのではなく、
問題文の意味が把握できず成績が下がる。
(『知の操縦法』佐藤優)

コミュニケーションの手段を一つ失うということで、
それは大変にもったいない。
せっかく学んだ日本語なのだ。
読む、聞く、話す、書くのうちの、
ひとつも失いたくないじゃないか。

だから僕は書く。

シーズン4では小説も書き始めたし、
長い文章はnoteで販売したりもしている。

買ってくれる人はごくわずかだし、
メルマガを始めると「退会者」も増える。

そのたびに、心は折れる。

でも、こういうのに負けないということが、
書き続ける人間かどうかの試金石だと思う。
自分は試されているのだ、と。


▼▼▼SNSには向いていなかった▼▼▼


作家のスティーブン・キングは、
書くことの究極の目的は「喜び」だと言った。
読む人の喜びではない。
書く人の喜びだ。

人間は太古の昔に洞窟の天井に動物の絵を描いたときから、
「誰かに何かを伝える」ことに快楽を覚えてきたのだ。

SNSを現代人が辞められないのって、つまりそこでしょ。
Instagramは現代版ラスコーの壁画なのだ。
いや、ラスコーの壁画が早すぎたInstagramだったのか。

とにかく、人間は誰かに何かを伝えることに喜びを見いだす。

ところが、である。

SNS黎明期から5年ぐらい、
僕はFacebook、Twitterをやってみて分かったことがある。

SNSは僕には向いていない。
いや、僕が、SNSに向いていない。

適性がまったくなかったのだ。

受信においても発信においても。

その理由を話そう。

まず、僕は「人の噂話」に全く興味がない。
もともとそうだ。
多分ある種のサイコパスなのだと思うけど、
「だれそれがどこそこの大学に入ったらしいよ」とか、
「誰と誰が今仲が悪いらしいよ」とか、
「誰それは今引きこもりらしいよ」とか、
マジでその手の話しに興味が持てない。

多分、人間に興味がないのだ。
↑ここだけ切り取ればサイコパスそのものだ。

その引きこもりの人と、
いつか語り合うときが来たら、
僕はその話にとことん興味関心を持つ。
でも、その人不在のところでなされるその手の噂話に、
本当に興味が持てないのだ。

ロビン・ダンバーという、
「人間のリアルな交際範囲の上限は150人」という、
「ダンバー数」で有名な社会心理学者がいる。
この人によると、
人間は「サルの毛繕い」を拡張するために、
言語を獲得した。

つまり言語獲得の原初の目的とは、
「噂話」に他ならない、
という魅力的な仮説を提唱している。

じっさい、人間集団の会話を記録し、
それらをカテゴリ別に分類すると、
圧倒的に「噂話」が多いというのもどこかで読んだことがある。
「○○課の誰それが課内で不倫して、
 4月にそれが原因で異動になるらしいよ」
「え、マジで?」

「部長の息子って今大学4年の年齢じゃん。
 でも、高校中退して以来一歩も家から出てないらしいよ」
「えー、大変だよねー」

この手の会話ほど盛り上がるものはない。
給湯室談話だ。

しかしながら、
かっこつけているのでも何でもなく、
僕はこの手の会話が本当に苦手で、
というか興味が持てない。

本当なのだ。

信じてほしい。

その代わりに、
「宇宙の起源」とか、
「人間が生きていることの意味」とか、
「国家って幻想なのか実体なのか」とか、
そういうことにエキサイトする。

かくして友人は減る。

、、、で、SNSだ。

SNSって、
ヒューマンスケールを離れて拡張したサルの毛繕いだから、
僕はそもそも、そこで織りなされる一切に興味が持てない、
ということに気づくのに5年かかったのは、
僕が愚鈍だからだ。

ロビン・ダンバーと共同研究者は実際、
SNSで起きている社交現象と、
ダンバー数とその外のレイヤーで起きている現象が、
本質的にはまったく変わらないということを突き止めた。
「距離の障壁」がゼロになっただけで、
本質的にそこでなされているのは「毛繕い」なのだと。

SNSを始めて約5年、
2013年ごろから、
「そういえば、
 どこで誰が何を食ったとか、
 マジで興味ないな」と、
僕は認めざるを得なくなった。
ついでに、
「オレがどこで何を食ったか、
 特に人々に知らせたくねーな」とも。

その頃はちょうど鬱が発症した時期とも重なっていて、
その後2年間、SNSから離れた。
鬱が回復しても、
僕はSNSを再開することはなかった。
再開したら鬱が再発するような直感があったから。

つまり、僕はSNSに向いていなかったのだ。

人間、適性のないことをやるべきではない。

それは誰も幸せにしない。


▼▼▼ひとりに向けて書く▼▼▼


「人類にSNSは早すぎた」
って、結構最近、真面目な学者が言っている。

僕もそう思う。

いや、僕以外の人類は使いこなせているのかもしれないが、
リアルな噂話ですら手に余す僕には、
SNSは悪夢以外何者でもない。
手がつけられない。

だから、やめた。

辞めて正解だった。

だけど、僕には「書く」という欲求があった。
スティーブン・キングと同じで、
書かなければ生きていけない人間なのだ。

「意味のまとまり」を、
文章として形にし、
そして誰かに読んでもらって、
その意味のまとまりが伝わる。
その反応は様々だろう。
感動かもしれないし、
共感かもしれない。
拒絶かもしれないし、
怒りかもしれない。

でも、「伝える」ということに、
僕は飢えた。

それで、2017年にメルマガを始めた。

SNSは「承認のゲーム」だ。

SNS上で持論を展開したり、
長文のポエムとか論考とかを発表する人や、
政治演説を始めたりする人が、
ちょっと煙たがられるのは、
SNSが「承認のゲーム」であって、
「伝達のゲーム」じゃないからだと僕は思っている。

承認のゲームに、
長文の論考は邪魔なのだ。
ホイップクリームが鬼盛りのパンケーキとか、
野菜肉マシマシの二郎系ラーメンとか、
ナイトプールでチルってる写真とか、
雲がミッキーマウスの形になっている写真とか、
猫がひたすら可愛いだけのショート動画がそこでは歓迎される。

「かわいー」
「おいしそー」
「すごーい」
「だよねー」
という承認のゲームだから、
軽くポップな切り取り方をせねばならない。
重厚な論考は「お呼びでない」のだ。

軽いノリで行った二次会のカラオケで歌うべきは、
Perfumeの『チョコレートディスコ』であって、
長渕剛の『Captain of the Ship』(13分9秒)ではない。

、、、「ヨーソロー!ヨーソロー!
生きて生きて生きて、生・き・ま・く・れ!!」

長い長い長い、
熱い熱い、
暑苦しい、ってなるから。

「承認のゲーム」は僕に向かないから、
「伝達のゲーム」の場を探した。
「Captain of the Ship」を歌い上げる場所を探した。
見つけた場所が「メルマガ」だった。

ここはいい。

「いいね!」もない。

何の反応もない。

日本庭園のししおどしのように、
時々「コツン」って、
誰かから応答をもらう。

僕にはそれぐらいが良い。

いつも僕は、
このメルマガを、
ひとりに向けて書いている。

仮想読者がいる。
それは僕の妻であり、
僕の親友たちであり、
名も知らぬ、人生を真摯に生きている誰かだ。

その多くは、
SNSの承認のゲームに疲れている。
エレクトリカルパレードに疲れた誰かが、
枯山水の静寂を求めるように、
このメルマガが読まれたらいい、
と思いながら僕は一人に向けて今日も文章を書く。

僕なりの「スローなSNS」の、
今のところの最適解がこのメルマガだ。
SNSは人類に早すぎたのなら、
ちょっと後退すればいいじゃないか。
噂話と共感と承認だけがコミュニケーションじゃない。
静かな夜にたき火を囲んで聴く、
村の長老が語る神話もまた、
人類の太古からの欲求なのだ。

すべてが明るすぎ、
情報が過剰な世の中に、
こんな「引き算のメディア」が、
ひとつぐらいあっても良いじゃないか。

と思いながら、
たき火の向こうに向かって語りかける。
気づいたら誰もいなかったりして、
とか思いながら。

終わり。


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参考文献および資料
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・『書くことについて』スティーブン・キング
・『知の操縦法』佐藤優
・『なぜ私たちは友だちを作るのか』ロビン・ダンバー


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