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貯筋のススメ

自分でこしらえた人生しか、ぼくには意味がない。
  ――カルヴィン・トムキンズ

▼▼▼気候変動の秋▼▼▼

今日もまた晴れている。
秋の高い空が僕は一番好きだ。

とはいえ夏が長くなり、
気候の変化が急激になったので、
「今は秋」っていう期間が、
2022年の東京では体感では1週間ぐらいしかない。
春も同じ。
僕が子どもの頃、つまり80年代の日本では、
夏は今より短く、
台風はちゃんと9月だけに集中していて、
秋や春もまた2~3ヶ月あって、
「四季」って言葉が、
確かにしっくりきたはずなのだけど。

ちなみにこれが「思い出補正」でないことは、
当時の気象庁のデータからも実証されている。
90年代以降、東京の天気は、
というか全世界の天気は「バグっている」のだ。
百葉箱の鳩も、さぞ混乱していることだろう。

僕はもう「雨季と乾季」ってことで、
自分の中では整理をつけている。
年の半分が夏で、後半分が冬だ、と。
その間に、カプコンのSFCゲーム『ファイナルファイト』の、
自動車を壊すボーナスステージのように、
短い秋と春というラッキーゾーンがある。
僕の中のハガー市長はそこで、
ダブルラリアットを連発する。

「ヒャッホー」って。

今ぐらいしか良い気候ってないでしょ。
ってか、「快適な天気」って
今の東京では年に全部で7日間ぐらいしかないのではないかと、
僕は疑っている。
あとは暑いか寒いかジメジメするか台風が来てるか、
ゲリラ豪雨が降るか雹が降るか豚が降るか魚が降るか、
そんなだ。
終末を待ち望む必要なんてない。
すでに人類は自らの産業活動により、
終末的気候変動を引き起こしているのだから。

▼▼▼脱線したところ▼▼▼

さて。
昨日書こうとしたことが、
いつも書けずに脱線が本線になり、
「また明日」ってなる。

もうそれはそれで良いのだけど、
けっこう僕は真面目なので、
スタート地点から2メートルで分岐した、
脱線地点をちゃんと覚えていて、
本線に戻さないと夜寝られない。

これは真面目というより、
しつこい性格だからだ。
「話題が元に戻ってこない世間話」が、
僕はとても苦手なのだ。
だから僕は世間話が好きな人から距離を置くことになり、
かくして食堂でひとりでメシを食うことになる。
人々は別に市民討論会に参加するテンションで、
立ち話をしているのではない。
話がA→C→W→S→Zと飛びに飛んでも、
別に構わないのだ。
それが立ち話だ。
でも僕は「A」のことを考え続けて寝られなくなる。

そんな奴お呼びでないので、
僕は「サルの毛繕いとしての世間話」ができない。
SNSを離脱したのもこれが理由のひとつだ。
あれはデジタルなサルの毛繕いだから。
これは致命的な欠陥で、
だから僕には知り合いが極端に少ない。

だけど「市民討論会」に一度でも付き合ってくれた人は、
「知り合い」を飛び越え「友人」になるので、
僕は知り合いが少なく友人が多い。
親友となると、おそらく平均的な45歳の中では、
全国大会に出場できるぐらい多い。
親友でアベンジャーズが作れるぐらい。

そんな僕だから、
自分が脱線したポイントまで戻ることには、
結構こだわっている。

▼▼▼ニホンジムオジサン▼▼▼

じゃあどこで脱線したかというと、
僕は毎朝筋トレをする、
というところからだった。

そう、筋トレの話をしたかったのだ。

そしたらジムにいるおじさん、
学名「ニホンジムオジサン」の話になり、
僕による生態調査の結果を報告していたら白熱したのだ。

〈【ニホンジムオジサン 学名:Japan Gym Old guy】

ニホンジムオジサンは、
本州、四国、九州、北海道に生息する日本の固有種で、
日本全国のフランチャイズ系のジムに生息する
(離島にも目撃情報はあるが数少ない)。

朝は列をなして雑談し、
ジムのスタッフの接客を自主的に指導したり、
温泉施設であり得ない量のボディソープを使ったり、
サウナでぶっ倒れていたり、
様々な獣害を引き起こす一方、
愛好家からは観察の対象となっている。

ニホンジムオジサンが大量繁殖したのは、
団塊の世代がいっせいに定年退職を迎えた2013年ごろ以降とされ、
今はその数はピークだが、
あと10年すると諸般の事情で絶滅の危機に瀕するかもしれない。
ちなみに公営ジムに出没するニホンジムオジサンは、
厳密にはニホントショカンオジサンの亜種なので、
混同しやすいが別種である。〉

、、、と、
僕の「陣内生き物図鑑」に書いてある。
何ページか忘れたけど。

そんなニホンジムオジサンについて解説していたら、
なぜか金融資産の話になり、
「ミダス王の悲劇」の話になったのだ。

▼▼▼貯筋のススメ▼▼▼

話は実はつながっている。
金融資産/人的資本/社会資本
この3つが人間の資産の形だと橘玲さんは言った。

そして老後2000万円というのが、
いかに本質的でないかという話を僕はした。
納得してない人はそのままいてくれて結構。

でも、
僕が筋トレをしているのは、
この話と関係があるのだ。

大いにある。

僕には「貯金」は殆どない。
平均的な家庭持ち45歳と比べたら、
本当に周囲の人を「引かせる」ことができるぐらい、
僕には貯金がない。
貯金はしている。
でも僕は収入が少ないので、
それこそ爪に火を灯すように、
毎月、低額積み立てを、
少額ずつしている。
毎月の額が少額すぎて、
もう15年以上続けているが、
他人を引かせるぐらい少ない。

でも、
「ちょきん」には二種類あることに僕は気づいた。

「貯金」と「貯筋」だ。
後者の「ちょきん」は、
筋肉を貯めると書いて貯筋と読む。

お金を貯めることと筋肉を貯めることは、
どちらも老後のリスクヘッジで、
控え目に言っても両方同じぐらい重要だ。
しかしどういうわけか、
政府は後者について国会で議論することが少ない。
GDPに反映されないからだろう。

でも、
「老後2000万円の貯筋」よりも、
「老後100回のスクワット」のほうが、
僕には重要に思われる。

これがお金の「ストック」と「フロー」の話と関係している。

二つのシナリオを考えてみたい。

あなたが80歳になったとき、
資産が2億円あったとしよう。
しかしあなたの筋肉は衰え、
もう自分の足で歩くこともできず、
旅行に行く気力もなく、
美味しいものを食べようにも、
レストランに行くために、
階段を上り下りすることがおっくうだ。
欲しい宝石や服も、
骨のようになったこの身体には似合わないし、
だいいち、着ていく場所がない。
その2億円を使うとしたら、
あとは病院でチューブにつながれて、
目が飛び出るような高額の、
終末期医療の患者として過ごすためだけだろう。
ああ、私は何のために「貯金」してきたのだろう。

、、、これは幸せだろうか。

もう一つのシナリオはこうだ。

あなたが80歳になったとき、
さほど大きな資産はない。
ボロい家と小さな畑があり、
ゆうちょ口座に貯金が200万円ぐらいある。
これは死んだ時家族が葬儀で困らないためだ。
別に延命してもらいたいとも思わない。
だけど、毎日スクワットを100回している。
懸垂だって若者よりもできる。
もちろん衰えては来ているが、
筋トレをかれこれ40年は続けてきているおかげで、
階段をまだ駆け上がれるし、
畑仕事だってできる。
知り合いがまわしてくれる、
小さなアルバイトをして小遣いをかせぎ、
貧乏旅行にだって行ける。
筋トレした後は腹が減るから、
なんということはない肉じゃがでも、
身体に染みて美味しい。
ああ、「貯筋」してきて良かった。

ほらね。

もう最後の方は、
「進研ゼミの裏表紙の4コマ漫画」みたいに
都合の良いシナリオなのは自覚している。

「進研ゼミ始めてからは、
 部活も中間テストも彼女も、
 ぜんぶうまく行くようになったぜ!
 お前も始めればいいじゃん!」

、、、んなわけあるかい!

である。

まぁそこらへんは割り引いて考えていただくとして、
問題は「ストック」と「フロー」の差なのである。
ストックに安心を求めると、
僕たちは変化に弱くなる。
「フロー」を生み出すことが大切だ。
じゃあ、65歳以上になってもフローを止めないために、
何ができるかを考えるのだ。

僕は30歳で早期退職したみたいなものだから、
そのときから「早すぎる老後」が始まっている。
組織は自分を守ってくれない。
そのうえ貧乏だと、
脳みそが引きちぎれるぐらい考えるのだ。
考えた結果、
「フローが大切」ということが見えてきた。

そのフローをまわすためにとても大切な3つのものがある。
・友人
・勉強
・筋肉

友人に関しては、
橘玲さんのいうところの「社会資本」と同じだ。
ここから幸せが来る。
では、勉強と筋肉がなぜ、
フローを生み出す上で大切か。

まず勉強から。

ロバート・ライシュという人が書いた、
『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』という本がある。
21世紀の労働は、
マック・ジョブとクリエイティブ・クラスに二極化するだろう、
ということを「予言」し、的中させた有名な本。
知識社会における労働がどう変化するかを考える上で、
本書を踏まえずに議論するのは不可能なぐらいの「底本」だ。

この本の中でライシュは、
知識社会において生き残るために、
どのような能力が必要とされるかを論じている。
リンダ・グラットンの『ワーク・シフト』も同じテーマを扱っている。

難しいことはさておいて、
複雑なことを単純化して敢えて言い切るなら、
21世紀に稼ぎ続けられる労働者の条件は、
「学び続ける」というメタ能力を持っていることだ。

20世紀は、
「学んだ」という事実がものを言った。
医者も弁護士も牧師もカウンセラーもトレーダーも、
大学で学んだ知識のストックで、
残りの40年かそこそこの労働人生を食って行けた。

21世紀に知識はストックではなくフローになった。
この時代に稼ぎ続ける人は、
「学んだ」という事実の上にあぐらをかいている人ではない。
「学び続ける」というメタ能力を持つ人が勝つ。

社会人は二極化するだろう。
大学を卒業したら一切学ばなくなる人と、
大学を卒業してからのほうが、
大学にいたころより広く深い学びをしていく人。
21世紀に生き残るのは後者だ、とライシュは言った。

学び続けることが、
定年という概念がなくなった世界で生き抜くのに必要な、
「メタ能力」なのだ。

もうひとつが「筋肉」だ。

これは別に万人に当てはめるつもりはない。
「筋トレ」である必要はない。
「運動習慣」と言い換えても差し障りない。
だけど重要なのは「身体が動くこと」だ。

僕は今でもときどき、
自分が今も市役所の職員だったら、
どんな人間になるかを時々シミュレーションしている。
その自分は今より収入面では盤石だろう。
持ち家も持っているだろうし、
そこそこ良いクルマに乗っている気がする。
週末にはキャンプに行ったり、
ゴルフを楽しんだりしているかもしれない。
貯金もそこそこあり、
退職金ももらえる算段だし、
何より公務員の年金はえげつなく手厚い。

でも、よく観察すると、
その人物は今の自分と違う。
その人物はまず、太っている。

僕が体型を維持し、
なんだったら人生最高の筋肉を今手にしているのは、
道楽からではない。
組織が守ってくれない身分だと、
自分で自分を守るしかないからだ。
最終的には、自分の筋肉に支えてもらわなければ、
僕は自分の家族を養うことができない。

この切実な危機感が、
僕を毎日8時間寝させ、
食生活に気を配らせ、
筋トレを続けさせ、
学びを止めずにいさせてくれているのだ。

組織が守ってくれていたとき、
僕は「甲殻類」だった。
ローンは必ず通るし、
不動産屋は向こうから進んで部屋を貸してくれたし、
どこに行っても「公務員」といえば、
誰もがその仕事に納得してくれた。
大きな組織という固い殻に守られていたから、
ボク自身はかに味噌のように脆弱でも問題なかった。
「働かないオジサン」はかくして生まれる。

組織からでた僕は、
「哺乳類」になった。
自分の内蔵や筋肉や脂肪を、
自分の内部にある骨格で支えるしかなくなった。
不動産屋は僕に部屋を貸してくれないし、
ローンは絶対通らないし、
どこに行って自分の仕事を説明しても、
人々は首をかしげた。
「公務員辞めるなんてもったいない」と、
2億回はいわれた。
社会が信用していたのは僕という人間ではなく、
僕の所属する組織のほうだったことを、
嫌と言うほど思い知らされた。

かくして僕は、
自分で自分を支える以外になくなった。

その結実が「筋肉」であり、
「学び続ける」なのだ。
100キロのバーベルをデッドリフトするとき、
年間300冊の本を読み続けるとき、
僕は道楽でしているのではない。
野生動物の生き残りをかけた戦いのように、
真剣にしているのだ。

遊びではないのだ。

まぁ、筋トレも読書も、
本当に心から楽しいからしている、
というのもまた100%事実なのだけど。

▼▼▼筋肉は裏切らない▼▼▼

鬱になると、
本当にまったく動けなくなる。
だから僕はいつ鬱になっても良いように、
いつも「1ヶ月先の仕事」ぐらいまでを、
前もって片付け続けている。
それでもその「仕事の貯金」はすぐになくなる。
そしてヒーヒー言う。

それでも、
鬱の時に僕は絶対に筋トレをやめない。
他に何ひとつできなくても、
石にかじりついても、
筋トレだけはやる。
鬱で理由の分からない涙が出て来ても。
泣きながらデッドリフトを挙げる。

それには理由がある。

僕の鬱はある日突然治る。
治ったとき、
「脳さえ動いてくれれば、
 身体がいつでも動く状態」にしておくのが大事なのだ。
もし鬱の2ヶ月に筋トレがストップすると、
脳が動くが、今度は身体が動かない、
というふうになり、回復が二段階になって遅れる。
こうならないために、
僕は石にかじりついても筋トレを続ける。

そして鬱が治った日、
今年も思った。

「筋肉は裏切らない」と。

次の日からバキバキに仕事ができるようになる。
この恩恵は大きい。

大衆伝道者ビリー・グラハムの奥さんの、
ルース・グラハムの墓標が、
僕は前から気に入っている。

"End of Construction.
Thank you for your patience."

「忍耐いただきありがとうございました。
 やっと建築が終わりました」
と掘られている。

ついでにいうと「義」という漢字も掘られている。
これは「我の上に羊(キリスト)」という、
彼女の信念を表している。

素敵な墓標じゃないか。

特に End of construction のくだりは、
「人生がキリストに似せられる、
 終わりのない工事だ」
ということを良く表している。

僕は自分が死んだら、
そして墓標などという贅沢をいただけるなら、
ルース・グラハムの墓標をパクろうと考えていた笑。
でも最近、考えが変わってきた。

「筋肉は裏切らない」にしようかなと。

「筋肉は裏切らない。
 ――1977~20●● 陣内俊、ここに眠る」

見た人は全員思うだろう。

「いや、死んでんじゃねーかよ!」と。
裏切られてんじゃねーかよ、と。
骨になってんじゃねーかよ、と。

でも信じて欲しい。
本当に、筋肉は裏切らないのだ。

少なくとも政府や組織よりは、
筋肉は裏切らないぜ。
信頼してくれて良い。

おわり。

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参考文献および資料
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・『幸福の資本論』橘玲 (ダイヤモンド社 2017)
・『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ』ロバート・B・ライシュ(ダイヤモンド社 1991)
・『ワーク・シフト』リンダ・グラットン(プレジデント社 2012年)
・『優雅な肉体が最高の復讐である』武田真治(幻冬舎 2014年)

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