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教会に失望したところが本当の救済の始まり




教会は徐々に変わるということ、
ここ10年間の教会と前世紀の教会は違うということに、
うなずく人は多いでしょう。
ミサはラテン語ではなく自国語で執り行われますし、
福音派の教会はずいぶん「明るく楽しい」ところになりました。
(中略)
しかし、それらは根本的なものではありません。
教会の基本的なあり方は、そのまま存続しています。
宗教システムが自己正当化の偉大な才能を持つため、
また、制度が何より自己保身の衝動に従って運営されるためです。
  ―――『風をとらえ、沖へ出よ』チャールズ・リングマ(40頁)


▼▼▼永遠に未完成の宗教▼▼▼


キリスト教の教会に関わる仕事をしている。
1996年に洗礼を受けてからキリスト教徒として28年間、
2008年に公務員を辞めて宣教の働きに身を投じて16年間、
僕は「教会」というものと関わりながら生きてきた。

2008年からは直接的に、
「自分の人生の召しは教会に仕え建て上げること」
という自覚で働いてきた。

今もその自覚は変わらないし、
ますます強まっている。

僕の師匠の神田英輔先生は、
日本の「キリストの体」に仕えてきた方、
というのは側で見ていて一番よく知っているし、
それこそが僕が師匠から学び取った「核」だと思っている。

なので、僕は「教会なんて……」みたいな言説には加担しない。

教会はそれが制度的教会であれ、
信徒による自発的なハウスチャーチであれ、
内村鑑三の「無教会派」であれ、
オンラインチャーチであれ、
あらゆる表現系において、
教会は教会であるという理由だけで、
「無条件に尊い」と思っている。

なんせそれは「キリストの身体」なのだから。

「ふたりでも三人でも、
 わたしの名において集まる所には、
 わたしもその中にいる」のだから。
(マタイ18:20)

じゃあ、「教会」は絶対かというと、
まったくそんなことはない。

そもそも、
キリスト教は永遠に未完成の宗教なのだ。

平良愛香先生という、
ゲイを公表されている牧師先生がいらっしゃるが、
ご著書のなかでこんなことを言っている。


→P266~267 
 もしキリスト教が「人よりも神を重んじる宗教」であり、「自分の教え以外を否定する宗教」となってしまうならば、そこにとどまりたいとは僕は思いません。
 それでも僕がキリスト教の牧師としてとどまっているのは、「神が人を愛している」という大前提に希望を持っているからです。
 ある仏教僧侶が「仏教徒であるということは、仏教の犯してきた過ちの責任を自分も担うということだ。キリスト教も同じではないですか」といいました。

 とても重い言葉だと受け止めました。

 僕はキリスト教が「正しい宗教」だから信じているのではないのです。
 「キリスト教も、そういう危なっかしい、まだまだ発展途上の宗教だけど、その教えによって自分が生きていけると感じた。だからキリスト教の負の部分も引き受けると覚悟した。絶えず軌道修正する役目が、すべてのキリスト者にはある。僕自身、セクシュアル・マイノリティを傷つけてきたキリスト教の軌道修正をしながら、自分が生きていけると確信したメッセージを伝えていきたい」と感じたのです。

 僕自身が、自分を肯定できないときに、自分を大切だと思えなかったときに、自分を好きではなかったときに、それでも「私を肯定し、大切に思い、命がけで愛してくれる絶対的な存在がいる」と信じることで、命をつなぐことができました。

 そこから初めて、自分を愛おしい大切な存在なのだと受け入れられるようになったのです。
 今でも落ち込むことはあります。
 死んでしまいたい、消えてしまいたい、と思うこともときどきあります。
 そのたびに思い出すのです。
 「私が私を愛せなくても、私を愛してくれる存在がいるのだ」と。
 同性愛者の僕が神に愛されているように、みなさんも神に愛されている、それを伝えたいと思うのです。

あなたが気づかないだけで神さまもゲイもいつもあなたのそばにいる


、、、キリスト教が完璧だったことなんて、
今までにあっただろうかと僕は逆に問いたい。

異端審問で人を火炙りにした宗教、
魔女狩りをした宗教、
奴隷制度廃止に反対した宗教、
異人種間の結婚禁止を強固に主張した宗教、
他国にミサイルを撃ち込むことを思想的に援護した宗教、
地球が動いていることを否定した宗教、
女性が選挙権を持つことに反対した宗教、
それがキリスト教だ。

キリスト教は世界で最も傲慢な宗教のひとつだったし、
あるいは今もそうなのかもしれない。

でも同時に、
キリスト教はこの世界の最も素晴らしいものを生んできた。
病院や福祉という制度や、
民主主義という制度、
資本主義という制度、
立憲主義という制度を生み、
何より「基本的人権」という概念はキリスト教から生まれた。
「神の前の平等」という発明がなければ、
いまだに世界は江戸やローマや古代インドのような
身分社会のままだっただろう。
キリスト教は奴隷制度を擁護もしたが、
人種にかかわらずすべての人が貴いことを発見した宗教でもあるのだ。
「基本的人権」はカルヴァン主義から生まれたのだ。
(『人権思想とキリスト教』森島豊)

奴隷制度を擁護したのもキリスト教なら、
奴隷制度を廃止したのもキリスト教(ウィルバーフォース議員)なのだ。
人権を抑圧したのもキリスト教なら、
貧しく抑圧された人々に力を与えてきたのもキリスト教(解放の神学)、
戦争の原因になったり肯定したのもキリスト教なら、
最も深い平和哲学の保持者もキリスト教(メノナイト派)。
人種隔離政策を支持したのもキリスト教なら、
人種的平等を推し進めたのもキリスト教(キング牧師)だ。

キリスト教さえなければ
世界はもっと平和だったという人がいる。

でも、キリスト教がなければ、
我々の世界はもっと酷いものだったかもしれない、
という仮説も同様に成り立つのだ。

混乱する。

教会は世界をよくしたのか。
それとも悪くしたのか。

教会が世界をよくする存在であるために、
僕はこの人生を使いたいと思ってきた。

それに本気で取り組む人であればあるほど、
教会に失望する機会も多くなる。
期待すればするほど落胆も大きいのだ。

パウロは基本、教会に対して「喜怒哀楽」していて、
感情剥き出しにそれを手紙にしたためたわけだけど、
教会を愛する人は、教会に傷つく人でもある。
「教会から受ける傷」を自らに引き受けると決めた人が、
逆に言えば教会を愛する人なのだと思う。

達観したポーズで自分を超越した位置に置き、
「今の教会はそもそもね……」と、
したり顔で言う「生傷を負わない」批評家タイプを、
僕は信じていない。
教会の実像にモロに傷を受ける人が、
内部からそれを変えてもいける人だと思うので。

そんなわけで僕は教会に「幻想」を抱いていない。
でも「夢」は抱いている。

今日はそんな話をしてみたい。


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