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そ 『そうめん』


そうめんを思い出すとき、僕はいつもおばあちゃんの家にいる。父方の祖母の家だ。子どものころの我が家には、「豊橋のおばあちゃん」「蒲郡のおじいちゃん」という言い方があった。父は豊橋に、母は蒲郡に両親がいた。それが僕の祖父母ということになるのだけど、豊橋の祖父と蒲郡の祖母は僕が低学年のころには既に病死していたので、豊橋のおばあちゃん、蒲郡のおじいちゃん、ということになる。僕は小学校5年まで愛知県知多市に住んでおり、その頃は良く夏休みに、豊橋のおばあちゃんと蒲郡のおじいちゃんの家に電車や車で帰省した。今考えれば週末とかでも全然行ける距離だし、蒲郡と豊橋は通勤する人も多いぐらい近しい隣町だが、当時は大冒険のように感じていた。

そして、そうめんと言えば豊橋のおばあちゃんの家で、豊橋のおばあちゃんの家といえばそうめんなのだ。陣内家は一度も持ち家を所有したことがなく、ずっと社宅暮らしだったので「一軒家に泊まれる」というのがそもそも大冒険だった。利便性は豊橋のおばあちゃんの家に軍配が上がった。トイレは和式だけど水洗で、近くにコープのスーパーがあり、小さな「応接間」があって、二階に昇る階段は絨毯みたいな素材になっていた。僕たちは二階に寝るのだが、和室が2つあって、なんか夜とかは怖かったのを覚えている。

一方蒲郡のおじいちゃんの家はトイレが和式かつ汲み取り式で、いつも落ちるのが怖かったし、二階に上る階段はあり得ない急勾配なうえに黒い木でできていて、豊橋の階段よりももっと怖かった。壁はなんか、砂みたいな素材でできていて、触ると小さなキラキラの粉が手についた。木が黒かったのは今考えると火で焦がして腐敗を防ぐ工法とかそんな感じだったのではないだろうか。あと、風呂がないので近くの銭湯におじいちゃんと一緒に連れて行ってもらった。銭湯に行くと風呂上がりにコーヒー牛乳を買ってもらえるので、そこはおじいちゃんの家に軍配が上がった。

さて。豊橋のおばあちゃんの家のそうめんだ。そのそうめんはいつも大きなガラスのボウルの中に張った氷水の中に浮いていた。赤とか緑とかの色がついたやつが混じっていて、それを僕たちは何か貴重なもののように食べた。その後にすいかを食べたりもした。そして歩いて30秒のところにある小さな小さな公園に、ぶらんこがあるのでそこで弟と夕方になるまで遊んだ。当時の夏休みは今と違って日中に外遊びしても命の危険がなかったのだ。それからおばあちゃんの家の庭で花火をしたりした。線香花火が楽しいことを知ったのはその庭でのことだった。麦茶が冷えていて、普段は家にいない父親が軒先で昼寝してて、健おじちゃんという父の弟が遊んでくれたりして、豊橋のおばあちゃんの家は僕たちにとってフルコースのエンタメだった。

核家族で転勤族で、地元という感覚を持たない僕は、大多数の「地元がある人」の話を聞くと羨ましく感じ、何か大切なものが自分の人生には欠けているのではないかと思うのだが、僕の地元はちゃんと、僕の心の中にあるのだ。


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