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もの静かな僕の内面はやかましい

ひとりでいることのできない者は、交わりを用心しなさい。
交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。
―――――ディートリッヒ・ボンヘッファー『共に生きる生活』

▼▼▼秋が好きな理由▼▼▼


平穏な日々が続いている。
秋が好きなのは、
自分の脳のコンディションが一番良くなるからかもしれない。
夏は鬱を再発させるほど僕にとって過酷で、
秋は僕を正常に戻してくれる。
こんなにも季節に影響を受ける脳みそというのは不便だ。
社会は僕のことを「りんごの木」みたいには思ってくれない。
年に1度、寒い時期に収穫できれば、
それで良しとはしてくれない。
自然界は季節によって実が実ったりするのに、
人間がつくった社会は、
人間に年中実を実らせることを期待し、
できなくなると「どこかおかしい」となる。
そりゃ、どこの会社も休職者が続出するわけだ。
自然の摂理に反する働き方を、
われわれは強いられている。

秋が好きなのは、
「どことなく静か」というところもあるかもしれない。
なぜ春じゃなく秋?
と聞かれることがある。
春が好きな人はとても多いから。
そして僕にとっては信じられないことだが、
夏が好きだという人もいる。
人間は一人ひとり違うから、
そりゃそうなのだけど。

春と秋の何が違うか?

気温だとか湿度だとかは似ているかもしれない。
寒くなり始めてるのが秋で、
暑くなり始めてるのが春だから。
「壊れかけのレイディオ」と、
「直りかけのレイディオ」が、
スナップショットでは同じになるように、
両者は気候的には似ているかもしれない。

しかし、違うことがあって、
それが「静かかどうか」なのではないかと僕は思う。
春の気候は好きだ。
5月あたりのうららかな陽気は、
「1年中この天気だったら、
 政権も安定するんじゃないか」
ってぐらい、不機嫌な人を減らす力がある。

しかし、春というのは、
なんだか僕にとっては「やかましい」印象があるのだ。
春はエネルギーに満ちていて、
自然界も繁茂する準備をし、
人間界も新しいことが始まったり、
新しい出会いがあったりで浮き足立っていて、
なんだか僕には「やかましい」のだ。
あの、お花見の雰囲気が、
僕にはトゥーマッチなのだ。
桜を見るのなら、
僕は誰もいない河原で、
椅子に座ってひとりで、
あるいは二人ぐらいで桜を見たい。
そしてその美しさに圧倒され、ため息をつきたい。
ブルーシートの場所取りで、
尖閣諸島のような場所ができて緊張関係が走ったり、
しこたま酒が入ったおじさんのセクハラ発言など、
マジで勘弁してほしい。
かくして僕は桜の名所からは距離を置き、
誰も見向きもしない道端の桜の下で、
ひとり美しさに嘆息する。

ものの楽しみ方が世間とズレているのだ。

秋は春と違い、
僕の楽しみ方とフィットする。
紅葉を楽しむのにブルーシートとお酒を準備する人はいない。
紅葉には静謐がよく似合う。
秋のこの「世界から情報が減っていく」感じが、
僕にはフィットするのだ。


▼▼▼1対1以外だとしゃべらない人間▼▼▼


そう、僕はもの静かだ。

自分ではそう思ってるけど、
他人がどう思ってるかは分からない。

僕はしゃべると決めた時はとことん喋る。
僕が喋る時は、僕とその人という、
1 on 1 か、
または3人の気心知れた友人というセッティングのみだ。

4人以上の集団ダイナミズムになると、
僕は突然口を閉ざす。
多 対 多 という状況で、
僕は自分が何を話して良いか分からなくなる。
そういう場はたいてい「おしゃべりな人」の独壇場になり、
「おしゃべりな人」の話というのはたいてい面白くない。
たまにおしゃべりかつ話が面白いという人もいるが、
そういう人はもう、おしゃべりで生計を立てている。
明石家さんまさんとかがそうだ。

しかし「一般のおしゃべりの人」は、
たいてい話がつまらない。
いや、つまらないからこそ、
薄めたカルピスを量で補うように、
話が長くなるのかもしれない。
これを「おしゃべりパラドックス」と僕は呼んでいる。
寡黙な人から話を聞き出すと短く面白い話をする。
おしゃべりな人は人の話を奪ってまで、
つまらない話を長々とする。
需要と供給がマッチしていない。


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